[movie] キャロル

Carol

トッド・ヘインズ監督による、ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラが、ふたり揃ってアカデミー賞主演女優賞と助演女優賞に最有力候補としてノミネートされている、「うつくしい人」度が致死量レベルに達してしまった作品です。

何というか、あまりに「うつくしい」がゆえに、もう何というかあまり正面から語る気が起きないので本筋については置いておくとして。

この作品では「ガラス越し」のショットが多用されています。キャロルも、テレーズも、それぞれ自分だけで、自分ひとりでいるような場面では特に、車の窓ガラス越しであったり、ショーウィンドウ越しであったり、オフィスのパーティション越しであったり、何にせよいつも、冷たく透明な何かに遮られた向こう側にいて、その時々の様々な表情の上に、雨のしずくであったり光の反射であったり、いろんなものが重なって映っていきます。

Carol behind glass

Therese behind glass

そこで描かれているのは、現実の世界とは相容れることのない美しさであり、その「一枚向こう」にある彼女たちだけの真実に対して、移りゆく現実の光と影はあたかも接して共にあるようには見えても、その実、重なってはおらず、手を伸ばして無理に近づこうとすると何かが割れてしまう、そんな致命的な隔たりがそこにはあるわけです。

それは、何も彼女たちが自ら望んでそこに隠れたり逃げ込んだりしているということではなく、自然な自分自身の有り様で生きている、ただそれだけで、魂と身体、声と体温が、図らずも世界からガラス一枚分隔たってしまう。そんな撮影がされています。(どんな撮影だ)

ちなみに、撮影監督はエドワード(エド)・ラックマンですが、彼はフランス撮影監督協会(AFC)のインタビューで、撮影機材についてこう答えています。

EL : ...The images quite simply needed to look like people could have been able to film them in the 1950s.

Which is why we shot in Super 16, so we could find the picture character that was appropriate to the era. Modern 35mm film was actually much to fine to end up with that on the screen.

16mm… in 2015 ? Did I hear that right ?

Can you give us some specs on the equipment ?

EL : We shot with an Arri 416, and for the most part I mounted it with an old Cooke 20-60mm zoom, which I love. We also had an Angenieux 25-250mm and an Arri Master Zoom 16.5-110mm. For the fixed lenses, I used a few Cooke Panchros that are 30 or 40 years old, and of course without any diffusion because in 16mm, we are after all trying to preserve all of the definition the film can capture !

1950年代という時代の空気を出すために、16mmフィルムによる撮影で、かつ、あえて古いレンズを使っているわけですが、その味わいはけっこう独特で、フィルム・グレインだけでなく、光源の輪郭の見え方(というか緩やかな綻び方)が非常に印象的です。まさにラックマン(そしてトッド・ヘインズ監督)の思惑どおり、こうして撮影された本作は、現代から遠く離れた時代の物語を、今とは別の土台の上に成り立った時代の話として、現代社会の文脈とは綺麗に切り離して成立させています。

本作『キャロル』は互いに惹かれ合う女性ふたりの物語ですが、セクシャル・マイノリティとかLGBTとかそういう現代の「社会問題」の話ではなく、あるいは「個人と社会の軋轢」の話ですらなく、その魂の求めるところが世界とはぐれてしまった、「ひとり」と「ひとり」の孤独な存在が、互いの中に「在るべき場所」を見出していく、という話でした。これをそのように全うして描きつつ、さりとて切り離しすぎたあまりに現実から遊離して「昔話」になってしまわないように、それこそガラス一枚の距離感に封じ込めること。これを見事に成し遂げたのが、監督、原作からの脚色、撮影、それに加えて極めて印象的な衣装と、映画が終わった後も心に残り続ける音楽、そして何よりふたりの女優の素晴らしい演技であって、アカデミー賞6部門ノミネートというのもまったくもって順当な、というか全部受賞しても何も驚くには当たらないような、本当に素晴らしい作品でした。

あまりに素晴らしかったので、観終わった後の帰り道、iTunes Storeでサントラをダウンロード購入してすかさず聴きながら、そうだ原作も読もうと思ってAmazon.comに行って検索したところ、「Genre: Lesbian Fictions」という間違ってはないけれどあまりといえばあまりにストレートな分類にやられて、少しばかり夢から覚めたような心持ちになりました。ということで原作はまだ読んでいません。

[movie] サウルの息子

Son of Saul ポスターにもあるとおり、第68回カンヌ国際映画祭のグランプリ作品であり、かつ第88回アカデミー外国語長編映画賞にも有力候補としてノミネートされているハンガリーの映画です。ナチスのユダヤ人強制収容所を舞台に、捕らえられているユダヤ人たち自身の中から徴用され、捕虜の管理のために働かされる「ゾンダーコマンド」のひとり、サウルの物語を、監督ネメシュ・ラースロー監督、サウル役ルーリグ・ゲーザで描いた作品なんですが。

実は、まだ学生だった頃、ドイツのミュンヘン郊外にあるダッハウ強制収容所を訪れたことがあります。ダッハウは強制収容所としては最古のものの一つで、その後いくつか作られた収容所のモデル的な位置付けになっているそうなんですが、現在に至るまで「人類の負の遺産」のひとつとして保存されています。実際に訪れて目にしたものなどについてはここではあまり踏み込みませんが、それはもう相当な衝撃を受けたものです。

それを踏まえて、この映画については割と後ろ向きになっていたというか、少なくとも喜び勇んでいそいそと観に行こうというようなものではなくて、「観るべきなのか」とか、「そもそも観るべきとか観るべきじゃないとかって何なんだ」とか「観なかったらどうなんだ」とかあれこれうだうだ考えていたわけですが。

やっぱり観ておいてよかったです。想像していたのとは全然違った作りで、自分の記憶全体の中でもかなり奥まった陰鬱な辺りにある刺々しく食い込んでいるナチスによるユダヤ人虐殺というものが、何か別のものとつながって収まりを見つけたような感覚があります。軽くなったりゆるくなったり、ということではないんですが。

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この映画は撮影が非常に特徴的で、35mmフィルムを用いて、全編を通じて40mmのレンズだけで撮影されています。で、たとえば試しにGoogleで"Son of Saul"でイメージ検索してみると非常によく分かるんですが、非常に視点が「近い」んですね。さらに、ほとんどのシーンが暗い中で開放気味の絞りで撮影されているので、被写界深度が非常に浅くなっています。

さらに、これはイメージ検索では分かりにくいんですが、この作品ではその「近い距離」でサウルを後ろから追っていくという撮り方をしているシーンが極めて頻繁に出てきます。画面の大部分をサウルの後ろ姿が占めていて、見えている向こう側はボケに沈んでいて「見えているもの」が極端に狭いわけです。接するほどに近いところから背中を見ているのに、そもそもサウルが「何を見ているか」も分からないような撮り方になっていて、時折、他の登場人物のアップとか、サウルの視点か、と思うようなカットがあるんですが、それすらも、カメラが戻るとサウルは俯いていたりよそを向いていたりするという徹底ぶり。

この意図的な「視野狭窄」状態をベースに、監督はさらに「思考の狭窄」を重ねてきます。ガス室に送られた人の群れの中に「息子」を見出したサウルは何とか「適切な葬儀」を行いたい、と願い、ただそのことだけを考えて奔走し続けます。しかしながら、ストーリー上、同時に進行していく捕虜たちの蜂起計画と、さらに追加で送り込まれる大量のユダヤ人たちの処置を急ごうとするナチスの動きが絡まって、ただひとつだけのシンプルな願いに衝き動かされているだけのサウルは、一向に思いを叶えられることなく、怒涛の奔流に巻かれる流木のように、右に左に翻弄され続けることになります。

一方、監督によって視野も思考も奪われる観客は、為すすべもなくサウルの背中に乗って、何の見通しもないまま、彼と共に流されていくことになります。観る側としても、もはや「息子の葬儀」を目指す以外にストーリーにしがみつく術がないんですね。その脇を、画面の端を、いろいろなものがぼんやりと、それでいて急速に流れていくので、端々に写る、もはや熱意を感じさせるほどに黙々と行われている「ゾンダーコマンド」たちの所為は、その意味を把握する間も、ましてや噛み締める間もなく消えていきます。勢いよく次々と投じられて赤く燃え上がる石炭が「焼いているものは何なのか」、一心不乱に働く彼らが川に投げ込み続けているその灰の山は「そもそも何だったのか」。

それらのすべての意味を置き去りにして、何ひとつ思うままにすることもできないまま、それでいてただひとつの願いだけは手放さないまま、彼以外の誰にも見えない何かを見つめ続けて流されていったサウルが、最後にたどり着いた場所で、初めて、彼のその視線の先がスクリーンを通じて観客につながります。視線を投げられることすらないままに過去へ流れていったすべてのものを背にして観客が最後に目にするもの。そしてそれが森の中へ消えていった時、観客はサウルに代わって「それを目にしたもの」になり、そして作品から解放されることになります。

 

正直、観る前は、どんな思いで劇場を去ることになるのか随分と不安に感じていたのですが、これは、ひとりの人間としては受け止めることも難しい巨大な罪の塊を見るものに投げ出すのではなく、それを「通過」していく作品でした。そして、それはこういったテーマに対して、映画というフォーマットが実現しうる、新しい視点なのではないかという気がします。テーマ上、こういう言い方も憚られる感はあるんですがあえて書くと「面白かったです」という感じです。

 

[movie] 『オデッセイ』の「人間性」について

先週(2016/2/5)公開の『オデッセイ』、なかなか好調なようで、興収についてはちゃんと調べていないんですが、Twitter上でもかなり話題になっているようです。公式の広報があまりパッとしないので、こういう口コミでどんどん広がっていって、一人でも多くの人が劇場に足を運んでくれればいいなぁと思うんですが、そのネット上での取り上げられ方を見てちょっと思うところが出てきたので、初見時の感想とは別に、ひとつエントリを起こすことにしました。 『オデッセイ』の素晴らしさとしてよく語られているのが「困難に巻き込まれたプロが、決してあきらめず、知恵を尽くして問題を解決していく」という、この作品のまさに本質とも言えるところです。その点については私も2億2530万回くらい頷くところではあるのですが、それと合わせてちゃんと語られてほしいなぁ、と思うのが、作中で描かれている「人間性」の部分だと思うんですね。

この作品については「地球に残してきた家族がうんちゃらかんちゃら」とか、「主人公とヒロインの、宇宙飛行士の間の恋愛」とか、女性が涙目で「Promise me to come back」とか、髭面の男がダミ声で「絶対に生きて帰るぞおおおお!」とか、そういう「余計で安易なエモ」がない、というポイントがあって、それはそれで実に素晴らしく、かつ、それによって「主人公マーク・ワトニー」のポジティブさだったり人間性だったりという話が際立つという構造があるんですが、その一方でやはり、原作では特に色濃く表れているテーマである「人間というもの」全体の「善なるもの」としての「人間性」というところは、ちゃんと拾われていって欲しいと思います。

たとえば、中国の国家航天局のグオ・ミンとチュー・タオが「太陽神」ブースターの提供を決断するシーン。

 中国国家航天局局長 グオ・ミン(エディー・コー/左)と 副局長 チュー・タオ(シュー・チェン/右)

映画でも「科学者同士で話をしなければ」というセリフがありますが、ここは原作ではもう少し濃くなっていて、正規のルートを通すと政治と官僚主義といろんな思惑が絡んで間に合う可能性がない、「科学者」が直接話をして「越権的に」動かなければこの局面は突破できない、というシーンなんですね。しかも、実はその政治的な話を後から解きほぐす「打算」もしっかり見極めている、非常にしたたかな「科学者」が描かれているわけです。

映画ではそこには踏み込んでいないんですが、それでも、そもそもアメリカの宇宙飛行士一人を救うのに中国の国家規模のプロジェクトを丸々ひとつ犠牲にするという極めて大きな「決断」が「科学者であること」の下に行われているというこのシーンを、人間ドラマと言わずに何と言おうか、という話なわけです。

また、劇中最大の山である、ヘルメス・チームが直接「火星に戻って」ワトニーを救うことを可能にする「リッチ・パーネル・マニューバ」についても、NASA長官テディ・サンダース、ミッションの責任者であるミッチ・ヘンダースン、そして当事者であるヘルメス・チームの5人も、まさに同質の「大きな決断」に対峙することになります。

Teddy-and-Mitch NASA長官 テディ・サンダース(ジェフ・ダニエルズ/上) アレス3 フライト・ディレクター ミッチ・ヘンダースン(ショーン・ビーン/下)

Hermes Vote左からマルティネス(マイケル・ペーニャ)、ベック(セバスチャン・スタン)、ヴォーゲル(アクセル・へニー)、ヨハンセン(ケイト・マーラ)、ルイス(ジェシカ・チャスティン)

5人の宇宙飛行士の命をリスクに晒すことはできないと判断するテディに対して、これまた「越権的」にこの情報をクルーに渡すミッチ・ヘンダーソンにしても、それを受けて全員一致でワトニーのために火星に戻ることを即断するヘルメス・チームの方も、「宇宙飛行士の魂」の下に、自らの身を顧みない、大きな「決断」をいともやすやすと乗り越えていきます。

もっといえば、この辺りの判断については、否定的立場であった長官のテディにしても、ルイス船長以下、さらに追加で5名の命を危険にさらすことを拒絶しているだけで、彼自身、その他のシーンでは補給物資積載の点検についてなど、ワトニーの命を救うための、他のあらゆるリスクは躊躇せずに取っていく強いリーダーシップを発揮していて、これもまた実に尊い。この人はこの人で実に明快な判断基準を持っていて、そこで躊躇うことをしていないわけです。

 

劇中のミッチの台詞として「彼らは一瞬たりとも躊躇わない」という言葉があります。この言葉はまさに全作品を貫通する大きなキーフレーズで、この言葉が向けられているヘルメス・クルーだけではなく、登場するすべての人物について、自分が信じる価値観に対して、まさに「一瞬たりとも躊躇わない」という姿勢が一貫しています。なので、映画は葛藤とか軋轢とかに拘泥せず、実にさくさくと進んでいき、こうしたひとつひとつの「問題」に対する「解決の行動」が実に爽快に連なって、清々しい感動につながっていくんですが、そうした側面の裏にそれぞれひとつずつ「精神性に基づく決断」があることを振り返っていくとまた一段と強く、深いレベルでの感動が湧いてくるわけです。

個人的にはこの「行動の裏の決断」をぐだぐだと描写しなかったリドリー・スコットとドリュー・ゴダードは実に正しいと思うんですが、その一方で、まさにこのポイントは「描かれていない」ものをどう捉えるか、という姿勢の話にも繋がってくるので、場合によってはこの作品の評価が分かれるポイントなのかもしれません。

実はネット上で「オデッセイは人間の内面が描かれていない、浅い」みたいな感想を見かけて心の底から驚いたんですが、確かに、「劇中で描かれていないもの」を拾ってやる義理は観客側にはないのかもしれません。人の迷いであったり逡巡であったり懊悩であったり、そういうものを乗り越えることの中にももちろん美しいものはあって、それを描く方向性というのもあると思うのですが、ただまぁこの作品について言えば、そういう懊悩を描いていない浅い作品ということではなく、そういう躊躇をすっ飛ばす即断の方をテーマにしたものだ、と個人的には思います。

で、それはやはり原作『火星の人』を読むと改めて深く感じられる部分だと思うんですね。「宇宙飛行士魂って奴ぁ…」とか「科学者っていいよなぁ…」とか「人類やっぱり最高だな」とか、映画版とはまた別観点での、非常に大きな満足感が得られるのは間違いありません。オススメです。

 

[movie] ストレイト・アウタ・コンプトン

コリー・ホーキンス、オシェア・ジャクソン Jr.、ジェイソン・ミッチェルの3人が演じる、コンプトン出身のヒップホップ・グループN.W.A.の成立から崩壊を通じ、ギャングスタ・ラップというシーンの立ち上がりと当時(1980年代後半から90年代にかけて)のアメリカの世相の移り変わりを描く、一種の伝記的な映画です。監督はF・ゲイリー・グレイ。

…で、また「実話に基づく」です。ええ。

まったくの門外漢として特に予備知識もなく観に行ったのですが(書き出しの段落もwikipediaとかからの付け焼き刃)、先入観も偏見も持たなかった、というのがある意味、功を奏したのかもしれません。非常に快適な映画体験でした。

ある意味、よくあるタイプのアメリカン・サクセス・ストーリーから転じてやや「ほろ苦」風味の味わい深いエンディング、という筋立てなんですが、何というか主人公たちの、決して善良とは言えないまでも真っ直ぐな、芯の通った人間性みたいなものと、各キャストのびしっと決まった演技(とパフォーマンス)が効いていて、登場人物に対してかなりスムーズに感情移入できてしまうのが良くて。

そこに持ってきて、メインの主人公であるドレの家族に対する愛情であったり、アイス・キューブの音楽に対する姿勢であったり、あるいはイージー・Eの、最後の最後までマネージャー(ポール・ジアマッティがまた非常にいい演技をしています)を切れないところであったり、ギャングスタという言葉からはちょっと連想していなかった、なんともエモーショナルなエッセンスがあったりして、非常に意外な後味を残すわけです。

特に、ポスターでも真ん中に写っている、イージー・E。契約の不公平さに異を唱えて袂を分かつアイス・キューブや、割と一貫して真面目っぷりを貫いているドレに対して、元々は麻薬の売人からスタートして成り行きで始めた素人同然のラッパーだったのに、あれよあれよという間にスターダムに上り詰め、そこで何かを見失っていった、というこのイージー・Eのキャラクターが、実に絶妙な「憎めなさ」で仕上げられていて、その土台の上に最後のプロットが来るのが実にずるいという。

 

とはいえ、この幕切れは、やや唐突といえば唐突で、そこまでに尺が足りなくなってしまっていた感はあります。その辺に、私が常々もやもやしている「現実がそうだったから」みたいなところが見え隠れしている気がして、少し座り心地が悪くもあるのですが、まぁイージー・Eにすっかり感情移入した後の話なので、気にするほどの違和感ではありません。非常に満ち足りた気持ちでスタッフ・ロールを眺めていたんですが。

この映画、プロデューサーとしてDr.ドレとアイス・キューブ本人がクレジットされてるんですね。(そのくらい知っておいてもよかった)

そうなるとまたちょっと話が違ってくるというか。この映画は親友であり同志であった3人の「成り上がり」と「軋轢」「決裂」そして「和解」を描きながら、最後にその中心にいたイージー・Eにスポットを当てて、いい奴だったよな、みたいになってるわけですが、生きてる二人が作ってるとなると、当人たちの描かれ方も多少なりと美化されていないか、という気はしてきてしまいます。アイス・キューブにせよドレにせよ、そう思うとあまり「シミ」がないキャラクターとして描かれているんですよね。

ただまぁ、結果的に、そのせいでイージー・Eのキャラクターだけが厚みを増しているのはなんとなく皮肉な感じもしますが、そういう背景を知った上で改めて考えると、監督のF・ゲイリー・グレイは結構バランスのいい舵取りをしていることがわかります。完全に外野の勘繰りめいてしまいますが、恐らくは相当に我が強く、業界の立ち位置的にも経済的にも非常に「声が大きい」であろう当事者2人を迎え入れて、その2人の視点と意向を踏まえながらも、巧みに「イージー・Eに対する思い」を抽出して、映画として仕上げたのだろうなぁ、さぞかし胃が痛かっただろうなぁ、と同情と賞賛を禁じえません。

 

***

ちょっと作品の枠外の話に逸れてしまいましたが、そもそも個人的にはヒップホップ以前に音楽を聴くという習慣があまりなく、かつ、根本的なところで「『不良』的なるもの」に対して距離を置きたい方なので、本来であればホームグラウンドではない作品だと思うんですよね。ところが、やはり高純度で蒸留された価値観というものは、そういう敷居みたいなものは軽々と乗り越えてくれるようで、観てるうちに「ん? 音楽も割といいじゃない?」みたいにあっさり感化されてきたりするわけです。

しかし、その感覚もある意味、この作品の焦点が音楽そのものでも、ましてやギャング文化でもないからこそ生じているものであって、それを支えているのは上述のキャスト陣の好演であり、またプロデューサーである当事者2人の彼ら自身の人生の様々な欠片に対する思い入れを、F・ゲイリー・グレイ監督が整理し、純化して作品へと昇華させたことによって実現された「映画としての価値」がもたらしているものではないかという気はします。ギャングスタ・ラップが実は肌に合った、とかでは多分なくて。

また、先に書いたように、筋立てとしては別に特段にユニークな構造ではなく、コンプトンのストリートで故もなく警官に引き倒されて地面を舐めさせられるような生活をしていた3人が、アメリカの「社会」と対峙し、しっかりと渡り合うような大きな存在として立ち上がりながらも、その成功自身に振り回されて対立し、離散し、というある意味で「よくある話」ではあるんですが、その一つ一つのステップが説得力を持って丁寧に描かれているので、「こうきて、こうきて、こうだよね」という一つの「形」がしっかりこなされている、という快適さもあります。やはり、常に基本に立ち返る、という意味で、定期的にこういう映画を観るのが大事ですね。

 

しかし、アイス・キューブことオシェア・ジャクソン役を、実子であるオシェア・ジャクソン Jr.が演じている、というのは、何というかどう捉えたものか。ウィル・スミス役をジェイデン・スミスがやっている、と思えば、ああそれはいつかやりそうだ、ということで収まりはつく気がしますが。

[movie] オデッセイ

TheMartian リドリー・スコット監督とマット・デイモンによる、人類の英知と魂への賛歌です。

というか、もう他に書くことないくらいにしっかりと収斂した一本の白い光の柱のような映画です。(といいつつ2ページほどみっちりやりますが。一部核心に踏み込んでますので未見の方はネタバレご注意ということで)

 

 

この作品はアンディ・ウィアー(Andy Weir)によるSF小説『The Martian』を原作としたものです。この原作は2009年からウィアーが「自分のブログで連載」していたもので、読者の求めに応じて2011年にKindle版をリリースしたところ、瞬く間にベストセラーになり、ついにこうして映画化に至ったという、非常にパワフルなSF小説なんですが。

原作のマーク・ワトニーは宇宙飛行士でありながらあまりマッチョ感はなく、植物学者という側面も含めどちらかというとソフトで、そしてどうしようもなくNerdっぽいキャラクターとして描かれています。(それが火星にひとり取り残された宇宙飛行士がジャーナルにログを残していくという語り口にマッチしていてまた非常に素晴らしいわけですが)

なので、映画化の主役がマット・デイモンと聞いたときには正直、違和感を覚えたわけです。いやいや、そんな男々した正統派宇宙飛行士じゃないだろう、と。何となく漠然とした不安を抱えたまま、本日、前夜特別上映で観に行ってきたんですが。

映画自体は144分という非常に長い尺なんですが、原作はそれ以上に詰め込み度が激しくて、そもそも映画化に当たって全部を取り込むことができないんですよね。なので、そこは監督リドリーと、脚本のドリュー・ゴダードの腕の見せ所だったわけですが、原作のスピリットをしっかり保持したまま、ハリウッド娯楽作品の枠組みにしっかり適合させていて、この辺りの改変のバランス感覚が本当に素晴らしかったです。

その「改変」を踏まえて見ると、例えば原作でのオタク的フレーバーの濃密さをあえて薄めているところが諸々あるんですが、そのレベルではマット・デイモンがものすごくぴったりはまるんですよね。考えてみれば、近年のボーン・シリーズなんかのイメージが上塗りされていた感はあるものの、マット・デイモンといえば『グッド・ウィル・ハンティング』でも非常に繊細な理系少年を演じていたわけで、原作のワトニーに通底する「理知」の雰囲気がしっかりあり、かつ、その上に盛られたマッチョ感も、後半のワトニーの体つきに絡んで、計算・設計された要素として配置されているわけです。まさにナイス・キャスティングと言わざるをえません。

キャスティングということでついでに言えば、アレス・ミッションの宇宙飛行士のキャプテンを務めるルイス船長役のジェシカ・チャスティンや同僚飛行士マルティネス役のマイケル・ペーニャ(お前かよ)、地球側の火星間連ミッション・ディレクターであるビンセント役(原作ではヴェンカットというインド系の名前なんですがビンセントになってます)のキウェテル・イジョフォー等々、実に豪華な面子が素晴らしい演技をしています。特にジェシカ・チャスティンは、前半の陰に沈んだ船内でのシーンは実に絵になっていて美しいんですが、もうひとり特筆すべきなのがアレス3ミッションの地球側ディレクターであるミッチ・ヘンダーソンを演じたショーン・ビーンです。

画面に出てきた瞬間からもう不吉な感じが漂ってしまう辺り、さすがの風格なんですが、その後の振る舞いが素晴らしい。原作のミッチは割と「嫌な奴」臭もほのかに漂っていて、そこがいいスパイスにもなっているんですが、映画版のミッチはその辺が薄められていて、実に男気に溢れたおいしい役どころで、それをショーン・ビーンが非常に適切に演じています。惚れる。

他にもところどころ原作から変わっているところがあって、そのひとつひとつに実に注意深い考慮を感じるんですが、やはり一番大きいのはエンディングでしょう。原作はワトニーの救出に成功したところで割とスパッと終わっていて、それはそれで実に見事なんですが、映画版は完全に新規追加された部分で幕が引かれています。これが実に清々しいというか。

原作は「なぜマーク・ワトニーは救われえたか」という問いを提示し、それに対するワトニー本人の「答え」で終わっていて、それは人間という生き物とその社会の「善性」に関わる大きなモチーフなんですが、映画版はそれはそれで踏まえつつ、「そして次にまた一歩進む」という不撓不屈の魂の連なりという、もう一つの価値を付け足してくるんですね。一歩間違えば大惨事であっただろうアレス3ミッションを越えて、アレス5ミッションが始まり、さらにその先の未来で宇宙に挑んでいくべき若い宇宙飛行士候補生たちへ、ワトニーの経験とスピリットが受け継がれていく、というこの追加部分によって、この映画が、ウィアーの原作を踏まえて、そこからさらに「ドリュー・ゴダード及びリドリー・スコットが自分のものとしてしっかり仕上げた作品」に持ち上げられていると感じます。なんとも清々しい終わり方でした。アカデミー脚色賞にノミネートされているのも非常に深く頷ける感じです。

個人的には原作も非常に気に入っていて、実際、畳み掛けるような苦難の連続とそれに対する取り組み、解決、そしてまた困難、という息をつかせぬ展開については、その描写と科学的考証の濃密さと「連打数」によって、むしろ映画より原作の方がよほど心拍数に応える感じだったり、あれこれ薄めに削られているワトニーをはじめとする主要キャラクターの性格や精神性は原作版ではさらに豊かに描かれていたりします。しかしながら、原作からの映画化作品としてはお手本とも言うべき高みに到達し、しっかり映画として完成している本作品もまた、決してそれに劣らない優れた作品であって、これはもう実に甲乙つけがたいというか、もう両方繰り返し何度も観たり読んだりするしかないだろう、という感じですね。MX4Dもあるし。

やっぱり宇宙飛行士ものは鉄板だなぁ。