[movie] パディントン

Paddington ポール・キング監督のコメディですが、ベン・ウィショー主演(声)、ニコール・キッドマンが主演女優(というか悪役)という割と贅沢なキャストに、イギリス風味を満載して突っ走っているなかなかの傑作です。

歯ブラシのくだりとか、もういかにもイギリスという感じで「うへえ」と顔を思いっきりしかめてしまうんですが、そういうのばかりでなくもう少しライトで爽やかな笑いもあり、かつファミリー・ムービーとしての王道を行くようなプロットで、鑑賞後は非常に晴れやかな気分になります。あと、ニコール・キッドマンは偉いなぁ、という感銘。

とりあえず一貫して笑える作品であって、変なクセも衒いもなく、安心して2時間を投じることのできる映画です。その一方、当然かつ妥当なことですが、あとに残るようなものはなく、もっというと特に語るべきところもないというか。

これは良し悪しあると思うんですが、最近のコメディは笑いを求めつつも結構、「感動させにくる」ようなところが入ってくることが多くて、「笑い」で活性化された精神に対して、それが異常に効果的であることがままあります。そういうのはもちろん「いいぞ、もっとやれ」でもあるんですが、たまにはそれを多少控えて、変に揺さぶってやろうなんていう色気を脇に置いた作品があってもいいかな、という気がするんですが、この作品はまさにそんな「あまり色気を出してない」素直な作品でした。

Rotten Tomatoesで98%とか言われるとマジかよ、とは思いますが、まぁ、日曜にはこういうのも良いと思います。

[movie] ブラック・スキャンダル

ジョニー・デップ主演、スコット・クーパー監督の、「実話に基づく」です。(またか。)

ボストンのアイルランド系住民で、幼い頃に絆を結び、今はそれぞれ別の道を歩んでいた3人、ギャングのボスとなったジミー・バルジャー、その弟で上院議員のビリー・バルジャー、友人でFBIの捜査官になったジョン・コノリーの人生が再び絡み合って、というお話です。

このジャンルは『ミスティック・リバー』とか『スリーパーズ』とかの傑作が記憶に残っているので大変ですよね。※なお「このジャンル」というのは「ケビン・ベーコンもの」のことです。

ちなみに「実話に基づく」とは言え、ポスターには「Based on Book」なんていう書き方がしてあって、実際にはDick Lehr とGerald O'Neillによる「Black Mass」というドキュメンタリーが原作になっています。映画も、原題は『Black Mass』ですね。

さて、中身ですが。

この映画のジョニー・デップは、どうしても頭部のバーコードっぷりが目立つんですが、実に凄みと深みのある演技をしていて、目の下の隈取りがなくても、ドーランを塗ってなくてもちゃんと存在感のある演技ができる、ということを改めて証明しています。批評家筋でもキャリア・ベストという声がちらほらあるくらいで、何というか、キャラクターではなく、「人物」を演じている感じ。

ちなみに弟役を演じるベネディクト・カンバーバッチとはあまり濃い絡みがないんですが、兄のジミーと、対照的に「正しい人」であるビリーとの関係は、淡々としながらも非常に堅い絆であって、劇中、二人が絡む最後の場面である電話のシーンはそれを見事に描き上げています。こういうベタベタしない兄弟は尊いし、ああいう「さらっと固い」みたいなのは非常に好ましいです。

劇中には他にもいろんなドラマがあって、特に主人公であるジミーの愛情と孤独、家族の喪失と、失くした拠り所に対する埋め合わせのように虚しいIRAへの傾倒などなど、じゃあ結局、このジミー・バルジャーという男は「何だったのか」、そして監督は何を描こうとしていたのか、というのが一見して掴みづらい、なんとも紛糾した感じに仕上がっています。ある意味、最近書いてきた流れで言えば、「実話に甘えて」そのまま放り出しているようなところがあるわけです。描くのではなく、ただそのまま提示する、というか。

しかし、この丸投げに意図がないかというとそうではない気がしていて。

ここでタイトルの話に戻るんですが、Black Massというのは、日本ではむしろ「黒ミサ」という言葉で知られていますが、要は反キリスト的、悪魔主義的な祭礼であったり、集会であったり、あるいは秘密裏に行われる結社の儀式です。このポイントは『ブラック・スキャンダル』という邦題では薄まってしまうのですが、この言葉の選択には割と大きな意味がある気がしていて、黒ミサであれ反キリストであれ、本来のミサあるいはキリスト教という枠組みがまずありきの構造で、それに反発し、それを歪曲し、それを憎悪して揶揄することをその「冒瀆」の核にしているがゆえに、むしろそういう本来の価値観に不可避的に根ざしてしまっている、というような含意が底にあるように感じられるわけです。

劇中、何度も出てくる教会のシーンもその辺りを補強しているような気がするんですが、そう思うと、そうした信仰であったり正しい道であったり、そういった善なるものを対比の軸に置きつつ、一人の人間として家族を深く愛しながらすべてを失っていったジミー・バルジャーと、イタリアン・マフィアを放逐するという正義を目指していたはずのジョン・コノリーの間に、この、実に黒々とした「Black Mass」が生まれ、何もかも飲み込んでいった、という、如何ともしがたい「大きなうねり」とそれに取り込まれた人の「魂」、そして流された果てにそこに生じてしまった、魂の「あるべきところからの距離」または「断絶」といったことがひとつのテーマなのではないかと思います。

そう捉えると、何というか極めて救われない話なんですが、しかしエンディングで淡々と提示される事実には、救済とは言えないまでもほのかな光が残っている気もします。

今作は「登場人物のその後を語る」という、おいおいそれをやるか、という終わり方をしていくんですが、そこで語られる「事実」は、単なる添え物的な「後日談」を超えて、ストーリーとしてのテーマに帰結しています。そこで提示されている、弟であるビリーと、友であり共犯者であったジョン・コノリーの「その後」は、結局どちらも、最後までジミーを「売らなかった」ということを意味しているわけです。後者はまぁ報復を恐れて、ということかもしれませんが。結果としてそこに残ったままの絆が、この映画が最後に目を向ける部分なんですね。

そのことを、それぞれ存命である、現実に存在している3人が互いに知って、互いに黙したまま、抱えたまま、今は別々に生きている、というのは、何となく、ただただ長い溜息が漏れるような話です。

そんなケビン・ベーコン・ムービーでした。

[movie] エージェント・ウルトラ

Agent Ultra ジェシー・アイゼンバーグ主演、ジョン・レグイザモ脇役、監督ニマ・ヌリザデでお届けする、ジャンル分けしづらいけど明らかにジャンル・ムービー、という作品です。

先日の『イット・フォローズ』と同じくいろいろ言いたくなるところのある映画なんですが、『ザ・ウォーク』でグロッギー気味の心にすっと優しく染み込む、「これこれ、この味」という感じで、個人的かつ一時的なニッチにぴったりはまってくれました。

ジェシー・アイゼンバーグは安定の挙動不審っぷりで誰もが期待している高速台詞回しもさりげなく絡めつつ、愛すべき主人公マイク・ハウエルを非常に説得力高く演じているんですが、脇役のキャストが意味不明でいいですね。レグイザモにせよ、後半に出てくるCIA高官にせよ(せっかくなので伏せますが)、お前かよ!みたいな驚きがシャッキリポンと口の中で踊ります。この主演と脇のバランスはどこか『キック・アス』を思わせる感じです。

アクションもしっかりしていて、突然急加速する感じの今風の演出と撮影がそつなく尺を運びます。最後の決戦の舞台は『イコライザー』風味なんかも取り込んでいる感もあり、この辺もなかなか貪欲で好感が持てます。

さらに全体を通してみると何となく『キングスマン』とかと比べてみたくなったりするんですが、こうして考えてみるといろんな映画を「思わせつつ」どの要素もそこを超えていってないんですね。端的に言うと「すげえ!」は無い。

ただ最初に書いたように、感想は「これこれ、この味」なんですよね。もちろん、自分がこれを今このタイミングで観たことというめぐり合わせによる部分もあるはずなんですが、具体的に不満なところは特になくて、でも強いて言えば、いくらでも言うことはあるものの、最終的な着地点としては「いやそういえばこういうの観たい方だったわ」みたいな。何かが自分の中に戻ってくるような感覚があります。あとエンディング(の手前)が非常に清々しくて、あれは非常によろしいです。

なので、あえて「強いて言えば」なんて無粋な話は放っておいて、この妙に高い満足感を尊重したいと思います。面白かったです。

[movie] ザ・ウォーク

The Walk JP ロバート・ゼメキス監督、JGLことジョゼフ・ゴードン=レヴィット主演の、「実話に基づく」です。ロバート・ゼメキスといえば押しも押されもせぬ『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズの監督ですが、個人的には劇場で観るのは1994年の『フォレスト・ガンプ』以来になります。

今年ここまで8本観て、実に5本目の「実話に基づく」で、ハリウッドは本当に大丈夫なのか、と心配になってきていたんですが、そんな心配も強烈なビル風で吹き散らしてくれる、極めてパワフルな作品でした。これです。こういう「ものすごい実話」を土台に、さらに「とんでもない映画体験」に引き込んでくれる二段階推進ロケットが観たいわけです。

話の筋立てはシンプル極まりなく、「変人が地上400メートル以上の高層ビルの間を『綱渡り』する」というもので、ネタバレもへったくれもありません。結末は最初から見えていて、何が怖いかも最初から分かっている、バンジージャンプのような映画です。事前に設定されている「目標」は「綱渡り」をどう描けるか、というこの一点だけ。

…ではあるんですが、映画全体の作りは実にロバート・ゼメキスで、クライマックスの実際の「綱渡り」に至るまでの語り口が実に特徴的というか、『フォレスト・ガンプ』でも印象的だった、ちょっとしたCGによる「幻視のアクセント」がちょこちょこと挿入されていて、ゼメキスのテンポに観客を巻き込んでいきます。正直、2016年の現在では、その細かなステップの設計に乗り損なう人もいるのではないかという気がするのですが、たとえば若き日のフィリップ(JGL)が独学で綱渡りを練習していくシーン、だんだん消えていくロープとか、時間の経過と彼の技術の向上を表現するのにくどくどと尺を使わず、わずか数秒の1カットで済ませる、というものすごく効率的なプロット運びで、その瞬発的な加速がある意味で観るものの足をすくってあとはなすがままに運ばれていく、という構造がデザインされていて、そこはもう乗るに限るわけです。そこからがゼメキスというジェットコースター。

で、このジェットコースターの最大のクライマックスである実際の綱渡りシーンについては、これについてはもうただただ自分で「体験」するに限るので多くは語りませんが、「綱渡り」自体については事前に明らかになっているにも関わらず、それでも人の予想を遥かに超える、というとんでもないことを達成していて、この辺りもゼメキスという巨大な凶器が観客を本気で殺しにきます。巨匠のくせにおとなげない。本当におとなげない。もう本当におとなげない。映画終わった後、手汗がものすごいことになっていたんですがさらに家に帰ると靴下に靴の色が写っていてどうやら足汗までかいていたようです。観ている間、頭の方はある意味で「歓喜の悲鳴」を上げていたんですが、体の方は相当しんどかったようで。

そしてその一大クライマックスの後で静かに収束していく終盤、個人的には実に鮮やかだと思う「裏面」の提示が行われます。ある意味で淡々と進行していたようにも見えた中盤で提示されている様々な要素がパタパタと再展開されて、繋がり直すというか。ここもある意味で『フォレスト・ガンプ』に通底すると思うのですが、この映画のメインプロットである、フィリップ・プティという稀代の変人や彼の「ザ・ウォーク」を描く流れの中でもう一つ組み込まれていた、ゼメキス自身の、アメリカという国、ニューヨークという街、そこに住む人々に対する大きな思いがファンファーレをともなって立ち上がってくるんですね。この辺も実に「おとなげない」というか、お前それ個人的なラブレターじゃねえか、みたいな感じで何とも清々しい感覚が残ります。実に爽やかな私物化。まぁそもそもこの映画は彼の私物なので異論は全くないわけですが。で、また私はこの手のネタに本当に弱いので、綱渡りで滅多刺しにされてよれよれになっていた魂はラストシーン、金色に輝く塔を登って見事に昇天していきました。南無阿弥陀仏。

芸達者なJGLやベン・キングズレー、ヒロインを好演したシャーロット・ルボンも一見の価値ありですが、とにかく「実話に基づく」のお手本のような作品でした。

 

[movie] クリムゾン・ピーク

CrimsonPeak 1/8に『ブリッジ・オブ・スパイ』、『イット・フォローズ』と同日公開されたギレルモ・デル・トロ監督、トム・ヒドルストン主演の、ゴシック・ホラーというかゴシック・ロマンスというか、トム・ヒドルストン映画です(いい意味で)。以下、今回はちょっと踏み込んで書いていますのでネタバレ注意です。

もうすでにいろんなところで言われているのでここで繰り返す必要もないんでしょうが、画面はもう本当に美しく、ヒロインを完全に食ってしまっている感のあるトム・ヒドルストンとジェシカ・チャスティンの顔力もあって強烈な「うつくし映画」に仕上がっています。

とは言いつつも外見だけで中身がないか、というとそうではなくて、一方ではギレルモ・デル・トロの趣味が炸裂しまくっていて、「お前雪が赤く染まる絵を撮りたかっただけだろ」というのが丸わかりな「血のように赤い粘土が産出する山のお屋敷」という舞台設定であったり、特に必然性もなく頻出してくる蝶や蛾のクローズアップであったり、何かと言えば頭を割られて死んでいる人が出てきたり、もう中身もデル・トロの赤身と脂身でぎっちりという感じです。

で、もっというと、ストーリーも、いや、これかなり良いですよ?

劇中、ワルツのシーンが出てきて「真に優雅な踊り手を見極めるには、手に火のついた蝋燭を持たせて踊らせればよい。火が消えなければ本物だ」みたいな話があるんですが、物語はそのセリフが一つの宣言だったのではないかと思わせるように実にスムーズで、登場人物の魅力にきらびやかに飾られながら、実に滑らかに進んでいきます。これがまた実に心地よくて。かつ、鍵束をあえて放置するプロットとかクライマックスのトム・ヒドルストンの「君は医者だ」とか、実に軽妙かつ巧緻なステップを踏んでいくわけです。この構成と脚本は結構、侮れません。

そして本作で一番大事なところですが。

デル・トロ監督といえば『パシフィック・リム』もありますが、そもそも『パンズ・ラビリンス』とか『MAMA』の人なんですよね。で、今回この『クリムゾン・ピーク』を観て再認識したんですが、やっぱりこの人、「ゴーストが好き」なんだなぁ、と。「ゴースト」に対して、とても優しい。ホラー映画にカテゴライズされる作品ではありますが、この映画に出てくるゴーストも、やはり人を傷つけないんですよ。自分を殺した相手に対する復讐すらしようともしない。基本的に、ゴーストの方が人に優しいという。これはデル・トロ監督の割と根っこのところではないかという気がします。

そういう「ゴーストへの優しい眼差し」(なんだそれ)を踏まえてみると、このお話はある意味、『パンズ・ラビリンス』にも通じる側面が出てくるというか。この作品は、「ゴーストの話」とか「幽霊屋敷の話」というよりは、不幸に晒されて傷つき歪みながら苦しんでいた人間が、「ゴーストになる話」であり、その舞台が「幽霊屋敷になって」一つの救済を迎える物語、という気がするわけです。ヒロインであるイーディス(ミア・ワシコウスカ)観点で見れば割と悲惨な話ですが、ある意味、生きてるんだから後はどうとでもなるだろう、という放り出され方をする一方で、ラストシーン、もう一人のヒロインであるルシール(ジェシカ・チャスティン)は、ピアノを弾いているんですよね。監督は明白にそちらを向いていて。

というか、まぁデル・トロは明らかに生きている人間には興味がないんですが、そういう振り切った撮り方をする作り手はいいなぁ、というお話でした。

もしくは、ヒドルストンのあのチャーミングっぷりはもはや鬼畜レベル、というお話です。