クエンティン・タランティーノ監督の第8作目、南北戦争後ほどなくのワイオミング州で、猛吹雪のために図らずもひとつ屋根の下に閉じ込められた曲者たちが織り成す密室劇、ということなのですが、もちろんタランティーノなので、一筋縄では済ませられないわけで、あまり歯切れのよい、簡潔な説明は実はできなかったりします。以下はその「簡潔な説明」に辿り着くまでの私的な覚書です。
さて、最初に「密室劇」という言葉を出しましたが、単にひとつの閉鎖空間でストーリーが進行するという意味で「密室劇」という言葉を選んだというわけではなくて、今作には実に濃厚な「舞台劇」的テイストがあるんですね。役者の語り口、セリフの応酬、登場人物同士の衝突と対峙から生まれる濃密な空気感。今作は70mmフィルムでの撮影ということで話題になったんですが、ワイオミングの広大な雪原を描くためではなく、むしろ役者たちが発する「力場」のようなものを孕んだ「劇空間」を独特な広がりのあるフレームとして、また濃密な厚みを持つトーンで捉えるためのチョイスであったような気がします。
そしてこの「役者の演技」という観点では、カート・ラッセルやサミュエル・L・ジャクソンといった、主役的な立ち位置の俳優だけでなく、脇を固めているティム・ロスやマイケル・マドセンが完璧な当て書きっぷりで、タランティーノ作品の真骨頂という感があります。基本、ひとつの密室の中での一昼夜、という極めて狭いスコープの、実に舞台的なセッティングの中で「会話」と「プロット回し」だけが濃密に絡み合う今作は、同じく非常に「舞台劇」的な色合いを持った『スティーブ・ジョブズ』を思い出させるわけです。そっちもつい最近観たばかりですし。
しかしそうして並べて考えると、やはりタランティーノは「映画の人」なんですね。「舞台劇」的なフレーバーというものは漂わせつつも、あくまで「映画」の「骨」で立っているというか。つぶつぶ感たっぷりの血糊であったり、アカデミー賞に(やっと!)輝いたエンニオ・モリコーネの音楽であったり、タランティーノ風味のカッティングであったり、約3時間という長尺を飽きさせない「映画畑のとれとれ新鮮タランティーノ作品」としてのエンターテイメントに仕上げられています。(一方の『スティーブ・ジョブズ』も大傑作なんですが、方向性が根本的に違うというか)
で、その「映画」という観点で考え直してみると。
昔から「西部劇」というのは世界からも文明からも孤立した閉鎖系の中で立ち上がる、一時的かつ特殊な「空間」、荒野のどこかにあるかもしれないし、ないかもしれない、そもそもあってもなくてもどちらでも外の世界にも実在の現実にも関係がない「異空間」を作るための装置だと思っているんですが、今作の、吹雪に閉ざされた駅馬車の屯所(兼、洋品店)という舞台は二重の、一見、冗長な構造なんですね。しかし、それはある意味で本作にアプローチするための手がかりであるかもしれないという気がしています。何というか、こうした舞台立て自体に、「西部劇による」「西部劇に対する」オマージュという感があって、今作ではそういったメタな観点が重要なカギなのではないかと。西部劇という世界を描く西部劇と、西部劇の在り様について語る西部劇、西部劇を総括する西部劇というか。
同じ西部劇というくくりでいうと同監督の前作、『ジャンゴ』の印象が未だに鮮烈だったりしますが、『ジャンゴ』は主演のジェイミー・フォックスもさることながら助演のクリストフ・ヴァルツとレオナルド・ディカプリオが素晴らしすぎて、彼らによって演じられた「人間の魂」のドラマになっています。(少なくとも、私の中では。ちなみにサミュエル・Lについてはいつものことなのであえて言及するまでもありません)
それに対して今作は形の上ではサミュエル・Lの演じるマーキス・ウォーレン『少佐』が主人公的な位置付けではありますが、主人公があって周りの登場人物やストーリーの流れが決まるというよりは、西部劇という枠組みの中で必然的に埋めなければならないポジションに、西部劇というストーリーの必然に要請されてサミュエル・Lが配された、と言いたくなるような描かれ方をしています。これは別に、『少佐』が「主人公にあるまじきクズである」、ということではなくて、他の登場人物すべてがそういう形になっていることを背景とした感覚です。
今作の登場人物は「ヘイトフルな8人」からそれ以外までも数えると、
- 黒人
- 賞金稼ぎ
- アバズレ/賞金首
- 保安官
- 老将軍
- 外国人
- カウボーイ
- メキシカン
- 御者
- 酒場(屯所)の主人
- 酒場(屯所)の女将
- 黒人メイド
- 陽気な女御者
といった並びで、何というか実にTypicalな西部劇のアーキタイプなんですね。個々の言葉だけでは表しきれないものの、それぞれに配分された「特徴付け」と「性格付け」を合わせると、ちゃんと確認したわけではありませんが、西部劇の主要な要素が概ねカバーされているような気がします。もう、各登場人物に個別の名前がなくてもいいレベル。
これをちゃんとストーリーとして整合する様に組み上げた上で、人種差別、南北戦争とその後に残った諸々の影響、「法の正義」と「西部の正義」と「Dead or Alive」と私闘における正当防衛、といったモチーフを盛り込んでるわけで、観る方としてはよほど西部劇と相性がいいか、西部劇に愛着のある人でないと受け止めきれずに飽和して疲弊してしまうのではないかという気がするわけです。(Twitterなどを見ていても、実際、タランティーノなのに眠くなった、みたいな話を散見します)
さらに、こうした登場人物やモチーフといったストーリー上の構成ブロックだけでなく、本稿冒頭で挙げた「舞台劇」的な仕立ても、あるいは人物のセリフの応酬で構成される部分の比率の高さも、強烈に力のある脚本も、70mmフィルムの採用もその撮影手法も、すべてこのメタな、抽象化されたレイヤーでのテーマの取り扱いのために周到に用意され、目的を達成するために非常に根本的なレベルで狡猾に統合された構成要素なのかもしれません。(単にタランティーノの趣味という可能性も少なからずありますが)
で、このように作劇上の構成要素とそれがどのように配置され「消費されたか」を考えると、どうしても、「『西部劇』をテーマに自由に作品を作りなさい。上映時間は何分かけてもよいものとする」というお題を自分で出して、嬉々として自分で取り組んだタランティーノの無邪気な熱中顔が頭に浮かんで仕方ないんですね。西部劇なんだからあれも入れなきゃ、そうだ、これもないとダメだろう、みたいな、フリースタイル時間無制限一本勝負、戦う前から勝者は自分一人、タランティーノ一人勝ち、みたいな。
そしてそういうことをやっている以上、そのメタな取り組みの中で、必然的に非常に重要になってくるのが、あるいは、最終的にこの作品が作品として提示しなければならなくなるものは、タランティーノが「西部劇」をどう定義しているか、ということではないかと思います。特に今回、「西部劇」そのものをモチーフに「西部劇」で語ることによって、「西部劇」を作る視点、すなわち「現実のアメリカ」の同時代から現代に至るまで、現実に対して「西部劇」がどういうものとして作られ、存在してきているのか、さらに言い換えると「物語と現実」の関わりに対する視点が自ずと浮き彫りになってくるような気がするわけです。
そして、その視点は、反省的な、というほどの「色」はついていないんですが、やはり俯瞰的、大局的なものであって、そうやって視点を構えたことに対するタランティーノの総括のリマークが、冒頭のシーンに映る、雪に埋もれて誰も祀るもののないキリスト磔刑像なのではないかと思うんですね。
この作品では8人がそれぞれ自分一人の魂に殉じ、「憎しみを全うする」だけで、そこには何の正義もなく、かつ、誰かが快哉を叫ぶようなハッピーエンドもなく、そして何より「西部劇」は現実に対して「何物でもない」わけです。西部劇の「憎しみ」は物語の中において解消されず、それはすなわち、物語が現実の「憎しみ」を解消しない、ということでもあって、世界においては、神ならぬ人の身のレイヤーではただただ不正義と憎悪が蔓延し、たどたどしいピアノと悪党の高笑いが響き、そしてつぶつぶ感いっぱいの血糊と、立ち上る様々な煙だけが宙を舞い続け、そして、「西部劇」として語られてきた「物語」は何の「解決」も見ない。
しかし、おそらくタランティーノの立ち位置は「それが『西部劇』である」というものであって、この作品そのもの全体が、彼がそのキリスト磔刑像によって力強くピリオドを打って締めくくった、ひとつの明確なステートメントなのではないかと思うわけです。「人の子よ、おお、Hatefulなる者たちよ、(以下略)」という、(以下略)の余韻も含めた世界観の言明というか。
西部劇というのは、上述した通り、荒野の中での「浮き島」のような構造を持っていて、ストーリーに干渉しない絶妙なレベルにある文明によって極めて強固に成立させられたその「隔離」の「浮き島」の中で、「その中だけで成立する真実や真理」を描くことのできる優れたフォーマットなのですが、その方式上、やはり作り手の「伝えたいもの」「見せたいもの」に対する強烈な収斂性が殺意を持って迫ってくる名作というのが多々あります。
それに対して、その「フォーマット」をフォーマット自体によって自己言及的に描いているこの作品では、その「焦点範囲」が全体の構成そのものに拡散する形で広がっているために、なかなかとっつきにくくなっている部分もあるのではないかと思うんですが、自身が熱烈かつおそらくはかなり偏りのある西部劇ファンであり、ジャンルの第一人者でもあるタランティーノによる、「『西部劇』というジャンルそのものに対する『総括』」として本作を観るのは、なかなか濃厚で、かつ非常に独特な映画体験と言って差し支えないと、個人的には思います。(で、そうして観ると、彼が「拾わなかったモチーフ」というのも見えてきて、それがまた非常に示唆に富んでいる気がするわけです)。
まぁ、そんな回りくどいことを言わずとも「ああ、あれは『タランティーノ』だよ」とひとこと言えば、それでこの作品を人に説明するのには足るのかもしれません。タランティーノ以外では絶対に作れない(作らない)作品でした。