[movie] リリーのすべて

The Danish Girlトム・フーパー監督、エディ・レドメイン主演の、世界で初めて「生得の性別を変える」手術に臨んだ人物、アイナー・ヴェイナーとその妻ゲルダを描いた「実話に基づく」ドラマです。字幕は松浦美奈さん。

実は、この作品については長いこと予告編を見せられ続けているうちに、観る前からけっこうしんどくなっていたんですが(エディ・レドメインのつらそうな涙が精神に堪える)、ようやく公開されたということで覚悟を決めて臨んだのですが。

やはり心に堪える作品で、最終的には、非常に美しい、どこかしら清浄な光を思わせるようなエンディングを迎えるものの、そのあとにはやはり、彼らが負った傷や抱いた苦しみの重さのようなものが残ります。

特に今作でアカデミー助演女優賞に輝いているアリシア・ヴィキャンデルが演じる「妻」であるゲルダは、「愛する夫」の内面から芽吹き、生まれてくる「まったくの別人である」「新しい女性」への困惑と受容、理解と隔絶、それに対面する自らの強さと弱さの間に揺れ惑うひとつの魂として、つらくなるほどに鮮やかに描かれています。

もちろん、自身の中に「女性」をはらんでしまった「男性」としての苦悩を直接負っているアイナー(リリー)も、その痛みの重さと深さ、そしてそれを演じるエディ・レドメインの卓越した演技力という点において、実に一歩も譲るところはないのですが、個人的にはこの作品で一番重く響いたのは、ゲルダの方でした。

たとえば『キャロル』をフェミニズムや同性愛といった軸から捉える視点と同じように、この『リリーのすべて』をトランスジェンダーという観点から見つめることは極めて妥当なことであろうと思うのですが、個人的にはどちらの作品もそういった「枠」を越えた、普遍的な人間の魂の物語であるような気がします。『リリーのすべて』、というタイトルではありながらも、これはリリーとゲルダのふたつの魂についての物語ではないかと。

その観点で見ると、女性として「生まれる」ことに対する無垢な期待感と希望に、幼いとさえ言いたくなるような純粋さですべてを委ねようとするリリーと、その後に残され、「愛する夫と生きる日々」という「これまでの自分が選んだ現実」を手放し、「愛した者が消えてしまった日々」という「新しく強制された現実」を受け入れようとするゲルダの対比は、光と影を隣り合わせに並べるかのように残酷でもあります。

アイナーの方は、リリーという名の女性としてまったく別の存在になろうとし、むしろ「アイナーである自分」や「アイナーであった人生」を、耐えうるべからざる苦しみとしてそこから解き放たれようとするのですが、そうして捨てられようとする「彼」の姿も形も、そこにいたるまでのすべての時間も、ゲルダの方から見ればすべて彼女の人生と魂から連続してつながっていたはずのものであり、昨日までと同じように、同じ姿でそこに存在するにもかかわらず、突然「断絶」してしまう、途方も無い喪失を彼女は受け入れなければならなかったわけです。その構図は、最終的にはゲルダの選択として追認される形ではあるものの、ある意味、どこまでも一方通行的です。そして、個人的にはこの、他に選択肢のない、激しく厳しい「一本の筋書き」に対する「主体」と「客体」としてのリリーとゲルダ、というのがこの作品の大きなモチーフであるような気がするわけです。

別の言い方をすれば、リリーは「願いを叶えて旅立った魂」であり、ゲルダは「願いを諦めて見送った魂」なわけです。そして、お互いのその決断の一点において、そこにいたるまでに自らのうちに得られなかったものを手に入れようとするリリーと、そこにいたるまで自らのかけがえのない一部であったものを手放すことになるゲルダの、それぞれの人生の致命的な交錯のような瞬間を象徴しているのが、駅での別れのシーンだと思うのですが、リリーを見送ったのち、真っ直ぐに、足早に歩くゲルダの姿は、砕け散ろうとする何か大きなものを必死で繋ぎとめようとする内面が蒼ざめた凄みとして滲んでいるようで、さすがにこれを見せられるとアカデミー助演女優賞はアリシア・ヴィキャンデル以外に与えようがない、という気になってきます。

さて、もう一方のリリーですが。

この作品、予告編でリリーのセリフとして「I love you, because you are the only person who made sense of me. And made me possible」という非常に印象深いフレーズが出てきていました(本編では出てきていないと思うんですが)。それを予告編で聞いていた時点では「No one else made sense of me」というリリー寄りの捉え方で「おおおお何というセリフだ」とぐっと来ていたんですが、本編を観た後では「Is that the only reason you love her?」というようなゲルダ寄りの(極めておせっかいな)観点が生じてきていて、ちょっと印象が転換した感があります。そして、この転換した後の印象自体も、もうひとつの作品のテーマに絡むような気がしています。

この予告編のセリフから感じた個人的なもやもや感のようなものは、リリーの悪意からではなく無垢さから来る「自分のことだけを中心にした視点」から来ていると思うんですが、原作からなのか脚本なのか監督なのか、とにかくリリーについては「子供のような純粋さ」が随所にあらわれる描かれ方をしていて(それがまたチャーミングなわけですが)、最終的にはあたかも「誤って地上に生まれてしまった純粋な魂がひとときの苦しみを越えて天に帰っていった」かのような結末を迎えます。その流れの末に、ラストシーンで風にさらわれた形見のスカーフに対してゲルダがおもわず叫ぶ「No, leave it! Let it fly!」というセリフも、そんな人智を超えた「天の配剤」を受容するような意味合いを帯びて響いてくるわけですが、正直なところ、神ならぬ人の身でそれを受け入れるゲルダを、あるいは「受け入れてしまった」彼女を、観る側としてはなんとなく受け入れそこねてしまった感があったりもします。単純に言うと、そりゃあんまりじゃないか、というか。

しかし、それがこの作品の自分なりの捉え方で、かつ、自分という受け手に対するこの作品の形なのだろうということで、意外と不愉快ではなく、むしろそういう作品としてより深く響いている気もします。生まれたばかりのリリーの愛らしさや健気さに母性本能的な何かをくすぐられて彼女の願いを叶えてやりたいと共感する部分に騙され切らず、この開花しなかったカタルシスのつぼみのようなものが、この作品が自分に残したものなのかと。

そんなわけで、感想としてもあまり綺麗に整理しきれないままではあるのですが、そういうことでよしとしようかと思います。あと、この映画については監督の名前がとっさに出てこず、あろうことか「トビー・フーパー?」などというおよそ考えうる中で一番ギャップの大きい過ちを犯してしまったことについては、ここで正式に懺悔しておきたいと思います。

 

[movie] パディントン

Paddington ポール・キング監督のコメディですが、ベン・ウィショー主演(声)、ニコール・キッドマンが主演女優(というか悪役)という割と贅沢なキャストに、イギリス風味を満載して突っ走っているなかなかの傑作です。

歯ブラシのくだりとか、もういかにもイギリスという感じで「うへえ」と顔を思いっきりしかめてしまうんですが、そういうのばかりでなくもう少しライトで爽やかな笑いもあり、かつファミリー・ムービーとしての王道を行くようなプロットで、鑑賞後は非常に晴れやかな気分になります。あと、ニコール・キッドマンは偉いなぁ、という感銘。

とりあえず一貫して笑える作品であって、変なクセも衒いもなく、安心して2時間を投じることのできる映画です。その一方、当然かつ妥当なことですが、あとに残るようなものはなく、もっというと特に語るべきところもないというか。

これは良し悪しあると思うんですが、最近のコメディは笑いを求めつつも結構、「感動させにくる」ようなところが入ってくることが多くて、「笑い」で活性化された精神に対して、それが異常に効果的であることがままあります。そういうのはもちろん「いいぞ、もっとやれ」でもあるんですが、たまにはそれを多少控えて、変に揺さぶってやろうなんていう色気を脇に置いた作品があってもいいかな、という気がするんですが、この作品はまさにそんな「あまり色気を出してない」素直な作品でした。

Rotten Tomatoesで98%とか言われるとマジかよ、とは思いますが、まぁ、日曜にはこういうのも良いと思います。

[movie] 白鯨との戦い

ロン・ハワード監督、クリス・ヘムズワース主演の「実話に基づく」です。内心期待していた怪獣映画風味は控えめで、海上での「白鯨」との遭遇シーンは、迫力はあるもののやはりそこに焦点があるわけではなく、実際には極限状況に置かれた男たちの人間ドラマ(と、その後日譚)が主眼です。

(そういう意味では原題「In the heart of the sea」を『白鯨との戦い』という邦題にした日本側配給は呪われてあれ。ポスターもアメリカ版の方が圧倒的に良いので今回はそっち。)

なお、キャスト陣には主演のクリス・ヘムズワースだけでなく、キリアン・マーフィーやベン・ウィショーといったおいしい辺りが名を連ねていて、劇中はとりあえず画面には常に花がある、といった感じなのですが、その一方、全体としては薄味というか。最後のポラード船長とか、キリアン・マーフィー演じるマシュー・ジョイの禁酒のくだりとか、人間ドラマの名手ともいえるロン・ハワードならではの「光るプロット」が多々盛り込んであるにもかかわらず、演出なのか脚本なのか、魂に踏み込んでくるようなパワフルさはなく。

しかし、水中のシーンも含めて絵はとてもとても美しくて、キャストの華やかさだけでなく、映像的には非常に贅沢な作品ではあります。

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さて、このところ、「実話に基づく」があまりに立て込んでいて、そろそろ整理をつけなくてはいけないと思っていたので、これを機に少し考えてみたいと思います。

仮に、映画というものが「高ければ高いほど良い建造物」だとした時に、その出来上がっていく建物の天井を支える柱は、「必然性という物理法則」に則した形で組み立てていかなければならない、と個人的には思っています。そして、それがその「法則」を高度に利用しているほど出来上がる建物は美しくなる、という側面があり、逆にそれがないと、「たまたま成り立った」だけ、もしくは「成り立たなかった」作品が後に残るわけです。単純に言えば、人が意図を持って作る「物語」に「なぜか偶然そうなった」は許されない、ということで。

ここが多分、個人的に「実話に基づく」に感じている、もやもやしたものの源なんだと思います。「実話に基づく」は実際にあった「事実」がその骨組みなので、柱の強度も配置も、「物語の物理」に必ずしも則している必要がなくて、端的に言えば、その作品の物語としての構造について「なぜそうなのか」という問いに、「実際そうだったから」以上の答えがない、ということがありうるわけです。で、実際にそうなってしまっている作品を見ると「実話に基づく」に甘えている、という感想を抱くわけです。

たとえば、今時、実際に目にすることはほとんどありませんが「爆弾のコード、赤を切るか、青を切るか」で、「南無三!」とかはありえなくて、赤を切るなら赤を切ると判断するに至る「理」がないとダメだと思うんですが、しかし「現実」ではそこに何の根拠もなく「ままよ!」でやった、ということがありうるわけです。

ただ、こうした「事実がそうだった」という以上の骨組みがないプロットに対する評価において、おそらくは唯一の例外となるケースが、それが「人の心」によるものである場合だと思っていて。それは厳密な必然性では描けないし、むしろ、それが描きえないこと自体によって、その人が描かれることになる、という逆転の構造がそこにあるわけです。その逆転が鮮やかに達成される時、心は震えるわけです。

爆弾のコードの例で言えば、『幽☆遊☆白書』の最後のエピソード。その作品性とか価値とかはさておき、あのエピソードの決着のつけ方がまさに「必然性だけで成立しない因果が、それを超えた物語としての枠で成立している」サンプルではないかと思います。物語の構造とか仕組みだけに着目して言えば、赤を切るか青を切るかで提示されたサスペンスに対する解決が、そのサスペンスにおいて主人公が何を思って何をしたか、という別の軸での物語上のカタルシスに、構造的に転換されているわけです。そして、そういうのは尊い、と。

ちなみに、そのエピソードは、それ自体の出来はさておいて(ベタですよねぇ)、ある意味、一つの里程標のような意味があるような気がしていて、その後、『HUNTER x HUNTER』で冨樫が進んでいった道を拓き、方向性をセットした第二の原点であったような気がします。キメラアント編の最後、そこまでかなり理詰めできっちり立ち上げていった物語の最後のカタルシスは、実は同種の転換ではないかと。そこでは転換先の別軸もしっかり設計・構築されていて、何というか原点に対する見事な到達点という気がします。

話が逸れましたが、改めてまとめると、「実話に基づく」は、「物語を構築する物理」を甘やかす可能性があるものの、その「物理」を越えた別次元の枠において、実話であるがゆえによりパワフルな「人間の魂」による転換を描くことができる構造で、また、そうであるがゆえにこそ、それを達成して見せてほしい、という期待があるわけです。

その意味で、本作は、極限状況のドラマ(海上に限らず、その後の場面も含めて)ということで、人間の意思であったり人智を超えた巨大な存在であったり、といった要素が実際に提示されていて、そこにかすっているんですが、そこが爆発しきらないというか。似たような感触は去年の『エベレスト3D』にもあったんですが、こんな実話があったんだ!とかこんな凄い人物がいたんだ!という「実話の時点ですでに提供されている価値」を、より高みに引き上げて提示してくれる作品が観たいなぁ、と思うわけです。ある意味、期待を裏切ってくれよ、という身勝手な期待ですが。

というわけで、『In the heart of the sea』、キリアン・マーフィーはいい顔でした。