[movie] 白鯨との戦い

ロン・ハワード監督、クリス・ヘムズワース主演の「実話に基づく」です。内心期待していた怪獣映画風味は控えめで、海上での「白鯨」との遭遇シーンは、迫力はあるもののやはりそこに焦点があるわけではなく、実際には極限状況に置かれた男たちの人間ドラマ(と、その後日譚)が主眼です。

(そういう意味では原題「In the heart of the sea」を『白鯨との戦い』という邦題にした日本側配給は呪われてあれ。ポスターもアメリカ版の方が圧倒的に良いので今回はそっち。)

なお、キャスト陣には主演のクリス・ヘムズワースだけでなく、キリアン・マーフィーやベン・ウィショーといったおいしい辺りが名を連ねていて、劇中はとりあえず画面には常に花がある、といった感じなのですが、その一方、全体としては薄味というか。最後のポラード船長とか、キリアン・マーフィー演じるマシュー・ジョイの禁酒のくだりとか、人間ドラマの名手ともいえるロン・ハワードならではの「光るプロット」が多々盛り込んであるにもかかわらず、演出なのか脚本なのか、魂に踏み込んでくるようなパワフルさはなく。

しかし、水中のシーンも含めて絵はとてもとても美しくて、キャストの華やかさだけでなく、映像的には非常に贅沢な作品ではあります。

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さて、このところ、「実話に基づく」があまりに立て込んでいて、そろそろ整理をつけなくてはいけないと思っていたので、これを機に少し考えてみたいと思います。

仮に、映画というものが「高ければ高いほど良い建造物」だとした時に、その出来上がっていく建物の天井を支える柱は、「必然性という物理法則」に則した形で組み立てていかなければならない、と個人的には思っています。そして、それがその「法則」を高度に利用しているほど出来上がる建物は美しくなる、という側面があり、逆にそれがないと、「たまたま成り立った」だけ、もしくは「成り立たなかった」作品が後に残るわけです。単純に言えば、人が意図を持って作る「物語」に「なぜか偶然そうなった」は許されない、ということで。

ここが多分、個人的に「実話に基づく」に感じている、もやもやしたものの源なんだと思います。「実話に基づく」は実際にあった「事実」がその骨組みなので、柱の強度も配置も、「物語の物理」に必ずしも則している必要がなくて、端的に言えば、その作品の物語としての構造について「なぜそうなのか」という問いに、「実際そうだったから」以上の答えがない、ということがありうるわけです。で、実際にそうなってしまっている作品を見ると「実話に基づく」に甘えている、という感想を抱くわけです。

たとえば、今時、実際に目にすることはほとんどありませんが「爆弾のコード、赤を切るか、青を切るか」で、「南無三!」とかはありえなくて、赤を切るなら赤を切ると判断するに至る「理」がないとダメだと思うんですが、しかし「現実」ではそこに何の根拠もなく「ままよ!」でやった、ということがありうるわけです。

ただ、こうした「事実がそうだった」という以上の骨組みがないプロットに対する評価において、おそらくは唯一の例外となるケースが、それが「人の心」によるものである場合だと思っていて。それは厳密な必然性では描けないし、むしろ、それが描きえないこと自体によって、その人が描かれることになる、という逆転の構造がそこにあるわけです。その逆転が鮮やかに達成される時、心は震えるわけです。

爆弾のコードの例で言えば、『幽☆遊☆白書』の最後のエピソード。その作品性とか価値とかはさておき、あのエピソードの決着のつけ方がまさに「必然性だけで成立しない因果が、それを超えた物語としての枠で成立している」サンプルではないかと思います。物語の構造とか仕組みだけに着目して言えば、赤を切るか青を切るかで提示されたサスペンスに対する解決が、そのサスペンスにおいて主人公が何を思って何をしたか、という別の軸での物語上のカタルシスに、構造的に転換されているわけです。そして、そういうのは尊い、と。

ちなみに、そのエピソードは、それ自体の出来はさておいて(ベタですよねぇ)、ある意味、一つの里程標のような意味があるような気がしていて、その後、『HUNTER x HUNTER』で冨樫が進んでいった道を拓き、方向性をセットした第二の原点であったような気がします。キメラアント編の最後、そこまでかなり理詰めできっちり立ち上げていった物語の最後のカタルシスは、実は同種の転換ではないかと。そこでは転換先の別軸もしっかり設計・構築されていて、何というか原点に対する見事な到達点という気がします。

話が逸れましたが、改めてまとめると、「実話に基づく」は、「物語を構築する物理」を甘やかす可能性があるものの、その「物理」を越えた別次元の枠において、実話であるがゆえによりパワフルな「人間の魂」による転換を描くことができる構造で、また、そうであるがゆえにこそ、それを達成して見せてほしい、という期待があるわけです。

その意味で、本作は、極限状況のドラマ(海上に限らず、その後の場面も含めて)ということで、人間の意思であったり人智を超えた巨大な存在であったり、といった要素が実際に提示されていて、そこにかすっているんですが、そこが爆発しきらないというか。似たような感触は去年の『エベレスト3D』にもあったんですが、こんな実話があったんだ!とかこんな凄い人物がいたんだ!という「実話の時点ですでに提供されている価値」を、より高みに引き上げて提示してくれる作品が観たいなぁ、と思うわけです。ある意味、期待を裏切ってくれよ、という身勝手な期待ですが。

というわけで、『In the heart of the sea』、キリアン・マーフィーはいい顔でした。