[movie] 『オデッセイ』の「人間性」について

先週(2016/2/5)公開の『オデッセイ』、なかなか好調なようで、興収についてはちゃんと調べていないんですが、Twitter上でもかなり話題になっているようです。公式の広報があまりパッとしないので、こういう口コミでどんどん広がっていって、一人でも多くの人が劇場に足を運んでくれればいいなぁと思うんですが、そのネット上での取り上げられ方を見てちょっと思うところが出てきたので、初見時の感想とは別に、ひとつエントリを起こすことにしました。 『オデッセイ』の素晴らしさとしてよく語られているのが「困難に巻き込まれたプロが、決してあきらめず、知恵を尽くして問題を解決していく」という、この作品のまさに本質とも言えるところです。その点については私も2億2530万回くらい頷くところではあるのですが、それと合わせてちゃんと語られてほしいなぁ、と思うのが、作中で描かれている「人間性」の部分だと思うんですね。

この作品については「地球に残してきた家族がうんちゃらかんちゃら」とか、「主人公とヒロインの、宇宙飛行士の間の恋愛」とか、女性が涙目で「Promise me to come back」とか、髭面の男がダミ声で「絶対に生きて帰るぞおおおお!」とか、そういう「余計で安易なエモ」がない、というポイントがあって、それはそれで実に素晴らしく、かつ、それによって「主人公マーク・ワトニー」のポジティブさだったり人間性だったりという話が際立つという構造があるんですが、その一方でやはり、原作では特に色濃く表れているテーマである「人間というもの」全体の「善なるもの」としての「人間性」というところは、ちゃんと拾われていって欲しいと思います。

たとえば、中国の国家航天局のグオ・ミンとチュー・タオが「太陽神」ブースターの提供を決断するシーン。

 中国国家航天局局長 グオ・ミン(エディー・コー/左)と 副局長 チュー・タオ(シュー・チェン/右)

映画でも「科学者同士で話をしなければ」というセリフがありますが、ここは原作ではもう少し濃くなっていて、正規のルートを通すと政治と官僚主義といろんな思惑が絡んで間に合う可能性がない、「科学者」が直接話をして「越権的に」動かなければこの局面は突破できない、というシーンなんですね。しかも、実はその政治的な話を後から解きほぐす「打算」もしっかり見極めている、非常にしたたかな「科学者」が描かれているわけです。

映画ではそこには踏み込んでいないんですが、それでも、そもそもアメリカの宇宙飛行士一人を救うのに中国の国家規模のプロジェクトを丸々ひとつ犠牲にするという極めて大きな「決断」が「科学者であること」の下に行われているというこのシーンを、人間ドラマと言わずに何と言おうか、という話なわけです。

また、劇中最大の山である、ヘルメス・チームが直接「火星に戻って」ワトニーを救うことを可能にする「リッチ・パーネル・マニューバ」についても、NASA長官テディ・サンダース、ミッションの責任者であるミッチ・ヘンダースン、そして当事者であるヘルメス・チームの5人も、まさに同質の「大きな決断」に対峙することになります。

Teddy-and-Mitch NASA長官 テディ・サンダース(ジェフ・ダニエルズ/上) アレス3 フライト・ディレクター ミッチ・ヘンダースン(ショーン・ビーン/下)

Hermes Vote左からマルティネス(マイケル・ペーニャ)、ベック(セバスチャン・スタン)、ヴォーゲル(アクセル・へニー)、ヨハンセン(ケイト・マーラ)、ルイス(ジェシカ・チャスティン)

5人の宇宙飛行士の命をリスクに晒すことはできないと判断するテディに対して、これまた「越権的」にこの情報をクルーに渡すミッチ・ヘンダーソンにしても、それを受けて全員一致でワトニーのために火星に戻ることを即断するヘルメス・チームの方も、「宇宙飛行士の魂」の下に、自らの身を顧みない、大きな「決断」をいともやすやすと乗り越えていきます。

もっといえば、この辺りの判断については、否定的立場であった長官のテディにしても、ルイス船長以下、さらに追加で5名の命を危険にさらすことを拒絶しているだけで、彼自身、その他のシーンでは補給物資積載の点検についてなど、ワトニーの命を救うための、他のあらゆるリスクは躊躇せずに取っていく強いリーダーシップを発揮していて、これもまた実に尊い。この人はこの人で実に明快な判断基準を持っていて、そこで躊躇うことをしていないわけです。

 

劇中のミッチの台詞として「彼らは一瞬たりとも躊躇わない」という言葉があります。この言葉はまさに全作品を貫通する大きなキーフレーズで、この言葉が向けられているヘルメス・クルーだけではなく、登場するすべての人物について、自分が信じる価値観に対して、まさに「一瞬たりとも躊躇わない」という姿勢が一貫しています。なので、映画は葛藤とか軋轢とかに拘泥せず、実にさくさくと進んでいき、こうしたひとつひとつの「問題」に対する「解決の行動」が実に爽快に連なって、清々しい感動につながっていくんですが、そうした側面の裏にそれぞれひとつずつ「精神性に基づく決断」があることを振り返っていくとまた一段と強く、深いレベルでの感動が湧いてくるわけです。

個人的にはこの「行動の裏の決断」をぐだぐだと描写しなかったリドリー・スコットとドリュー・ゴダードは実に正しいと思うんですが、その一方で、まさにこのポイントは「描かれていない」ものをどう捉えるか、という姿勢の話にも繋がってくるので、場合によってはこの作品の評価が分かれるポイントなのかもしれません。

実はネット上で「オデッセイは人間の内面が描かれていない、浅い」みたいな感想を見かけて心の底から驚いたんですが、確かに、「劇中で描かれていないもの」を拾ってやる義理は観客側にはないのかもしれません。人の迷いであったり逡巡であったり懊悩であったり、そういうものを乗り越えることの中にももちろん美しいものはあって、それを描く方向性というのもあると思うのですが、ただまぁこの作品について言えば、そういう懊悩を描いていない浅い作品ということではなく、そういう躊躇をすっ飛ばす即断の方をテーマにしたものだ、と個人的には思います。

で、それはやはり原作『火星の人』を読むと改めて深く感じられる部分だと思うんですね。「宇宙飛行士魂って奴ぁ…」とか「科学者っていいよなぁ…」とか「人類やっぱり最高だな」とか、映画版とはまた別観点での、非常に大きな満足感が得られるのは間違いありません。オススメです。