[movie] X-ミッション

X-mission.jpg 何か日本語版のポスターが見つからない、とかそういう事実が何事かを雄弁に物語っている気がしますが、とりあえず、エリクソン・コア監督による『ハートブルー』(1991)のリメイク作品です。そのオリジナルの方を観ていないのですが、とりあえずリメイクと言いつつ結構大胆に変えてきているということらしいので気にしない方向で。

この映画は「No CG」を標榜し、エクストリーム・スポーツの超絶スキルを持った犯罪者集団に、同じくエクストリーム・スポーツ出身のFBIエージェント(候補生)が潜入捜査を仕掛けるというプロットをいいことに、実にエクストリームな映像を好き放題にぶち込んだ作品なのですが、何というかこう、実にそれ以外に形容のしようがない仕上がりになっています。色んな意味で。

実際、この映画は、冒頭のバイクで切り立った尾根を疾走するシーンから始まって「ビッグ・ウェーブ・サーフィング」にしても「ウィング・スーツ・フライング」にしても、あるいは山頂からのスノーボーディングや完全にオーバーハングな崖に挑むフリークライミングにしても、CGじゃない、ということを頭が拒絶する感じのエクストリームっぷりで、理解を超えた凄まじい映像が全編通しててんこもりになっています。正直、これだけを観るのに劇場に足を運んでもいいレベルで。

特に「ビッグ・ウェーブ・サーフィング」については「映像自体が現実であること」を超えて、「そういうスポーツが実際に存在すること」という現実に打ちのめされるレベルです。5〜6階建てのビルの高さで立ち上がってくるその巨大な塊を見て、「よし、おれはあの波に乗るぞ」というような発想がどこから出てくるのか、人間という生き物の謎の深さ、業の深さに目眩がします。

その一方で、その映像を繋いで作品を束ねる役割を負っているところのストーリーがどうかというと、ちょうど位置付け的にしっくり来るのが『47 Ronin』ですかね。オリジナルの『ハートブルー』の主演がキアヌなんで、きっとそういうオマージュです。スピリチュアルな感じで、「お、おお、そうか…おお…おおお…」みたいな感じで、「悟る」ということがいかに己から遠いものであるかを思い知らされます。EnlightenとかOrdealとか普通に生きてるとあまり使わない言葉が頻出するので勉強になるんですが、それもすべて「オザキ・エイト」のインパクトによって綺麗に消去されるのでやっぱり勉強にはならないかもしれません。やはり「アルティメット・トラスト」の心境で、無心で身を委ねるのがいいのでしょう。何かを得るのではなく何かを返すための試練。そんなことを考えているうちに、よく分からないまま本編は終わっていたのですが。

スタッフロールが無茶苦茶長いんですね、この映画。

これだけ長いのは自分の記憶している範囲では『ハリー・ポッター アズカバンの囚人』以来じゃないかと思いますが、それもまぁこれまでに生きていて自分が地球から奪ったものを考えれば甘んじて受け入れるべきかという気はします。

なんともよくわからない映画だったので(いや、まぁある意味スゲーよくわかるんですが)よくわからないことをつらつら書いてきましたが、自分的には「映像キレイなだけで許せる範囲ってけっこう広いんだな」ということが分かりました。手汗もしっかりかいたし、満足です。足汗まではいかなかったのでさすがに『ザ・ウォーク』には及びませんが(他にもいろいろ及んでない)。

 

 

[movie] ディーパンの闘い

Dheepan内戦の続く祖国スリランカからフランスに逃れてきた3人の「偽装家族」を描いたジャック・オディアール監督の作品で、2015年のカンヌでパルム・ドール受賞作です。 と書き始めては見たものの、ジャック・オディアール監督作品はこれが初めてで、かつリアルタイムでパルム・ドール受賞作を観るのもこれが初めてだったりするので、実際のところ完全に手探りだったわけですが。

何というか、不思議な感覚でした。

主演のアントニーターサン・ジェスターサンが演じるディーパンはけっこうな顔力を備えていて、「虎」の異名を持つ反政府勢力の闘士としての説得力は十分以上(というか、本人がタミル・イーラムの少年兵上がりという経歴なので説得というより「現物」なわけですが)、「妻」を演じるカレアスワリ・スリヴァサンも「移民」にとっての「現実離れした現実」を正面から受け止めるにはまだ若い「妻」を好演しているのですが、プロットの角が取れていないというか。

ある意味、ハリウッドに甘やかされている、と言うべきなのかもしれませんが、するすると飲み込める喉越しではないんですね。ゴツゴツしているというと言い過ぎですが。

解放戦線の戦士だったディーパンがフランスの「団地」の管理人になり、日々の雑用をこなす日常パートに、その団地を根城にするギャングとドラッグ・ディーラーたちの不穏な流れが絡んできて、つに「家族」に直接の危険が及ぶに至り、というと、「あ、『そっち』かな?」と当然思うわけです。

ところが「家族」の方もあれこれと生の人間同士がその関係を徐々に結んでいく中でどうしても「ズレてしまう」みたいな流れが描写されて、簡単に「絆」みたいなものが出てこないんですね。そこはある意味、リアルといえばリアルで、そういうテーマはもちろん選択肢としてはありなんでしょうが、じゃ、どっちなの、と。

ここで「どっちかにしないのかー」と思ってしまうのが、非常によろしくないんだと思うんですが、その映画の本筋とは関係ない反省を片付ける暇もなく、映画はクライマックスに突入して、ディーパンはナタとドライバーを手に、ギャングのアジトに乗り込んでいきます。即席の火炎瓶を作り、車で突入して、煙が視界を完全に遮る中、階段をゆっくりと上りながらひとりずつ確実に片付けていくディーパンの、その足元だけを映し続けるシーンは素晴らしいんですが、「あ、やっぱりそっちなの?」という軌道修正が頭の後ろで走っていて、しかもその突入事態にはアクションとしてのオチはなく。あれ、何しに突入したんだったっけ、みたいな。

意味ありげな「象」のカットとかも合わせると、いわゆる一般的な映画の「方法論」を意図的に外しているのかと思うんですが、そうした「文脈」の助けがないので、いろいろと散りばめられているものをありのままに受け取ることになるわけで、本当に最近甘やかされているこちらとしては、観ててちょっと不安になるんですよね。あれ、これ、何か「解釈」できなきゃいけないんじゃないのか、みたいな。

しかし、基本に立ち返ると、そういう考え方自体、楽しむということに対して不謹慎な話で、こういう作品に出会った時に、星座にこだわらずに星空を観るような姿勢をすっと取り戻せるか、というのは、非常に重要なことであるように思います。とりあえず、個人的には、現実世界の内戦であったり、移民問題であったり、都市部の荒廃やドラッグの問題であったり、個人と家族の問題であったり、いろんなものがある中でそれを「ディーパン」の世界として切り出してきた作品として受け止めました(原題"Dheepan")。邦題のように「ディーパンの闘い」というとまた違う見え方になる気がしますが、それはそれでありかと思います。

ちなみに売人役でヴァンサン・ロティエという人が出ているんですが、この人、どこかエドワード・ノートンに似てますよね。(関係ない)

[movie] スティーブ・ジョブズ

Steve Jobs JP 主演マイケル・ファスベンダー、監督ダニー・ボイル、脚本アーロン・ソーキンで、コンピュータ業界が一番騒々しく輝いていた時代に、さらにひときわ騒々しく輝いていた男を描く作品なのですが、スティーブ・ジョブズという「あまりに有名すぎる」人物をいまさら題材に取って、いったい何を描こうというのかという疑問に、ものすごい答えを叩きつけてくる映画です。何というか、どんな球を投げてくるかとバッターボックスで構えていたら物凄いスピードで走ってきた右翼手が重たいボディフックを肝臓に叩き込んできたような。

もうかれこれ24年間、Macをメインに使っていて、iPod以降、アップル社の新製品で買わなかったのはApple Watchだけ(←)、というと、私自身の立ち位置はわりと過不足なく言い表せると思うのですが、要はMacであったりiPod/iPhone/iPadであったり、といったスティーブ・ジョブズが提示してきたビジョンを支持しつつも、彼本人に対して特に思い入れやこだわりはないんですね。そもそも、今回改めて確認するまで、スティーブ・ジョブ「ズ」なのかスティーブ・ジョブ「ス」なのか曖昧だったくらいで。

なので、数々の逸話や「神話」のようなものは、知識としては知っているものの、それもあまり特段興味はない、という感じだったんですが、今回改めて彼自身をテーマにした映画を観て、その立ち位置がちょうどよかったのを感じます。というのも、この映画は、スティーブ・ジョブズ礼賛ではもちろんないし、また、彼を「人間スティーブ・ジョブズ」として捉え直す、ということでもないような気がするからなんですが。

もちろん、彼がMacintoshの前に手がけたLISA(Locally Integrated System Architecture)と同じ名前を持つ「彼が認知を拒んだ娘」リサのプロットは「人間」側面を強く支持する主題であって、かつそれはまたアーロン・ソーキンの脚本もあって非常に強く胸を打つんですが、映画全体のバランスを見ると、やはりそれも、もっと大きな全体を支える柱のような位置づけだと感じます。

というか、もう単純に言ってしまうと、セス・ローゲンとジェフ・ダニエルズが凄まじいんですね。

Seth Rogen Steve Wozniak

スティーブ・ウォズニアク(セス・ローゲン)

Jeff Daniels John Sculley

ジョン・スカリー(ジェフ・ダニエルズ)

セス・ローゲンは「"もうひとり"のスティーブ」、スティーブ・ウォズニアクを、ジェフ・ダニエルズは「ジョブズを追い出した男」ジョン・スカリーを演じているんですが、この二人とファスベンダー演じるジョブズの対決シーンは、場所がだだっ広い空間であることもあって、大きめのIMAXとかTCXとか、あるいはATMOSなり極上爆音なり、そういう仕掛けで堪能したくなるレベルのスペクタクルです。特にウォズとのiMac発表会本番直前のホールでの激突は、広い劇場でまばらな観客で、まさに「その場にいる臨場感」で味わいたいくらいなんですが、まぁせっかくなので大ヒットして観客はいっぱい入っていたとしても我慢します。

劇中でも出てきますが、ジョブズといえば「現実歪曲空間: Reality Distortion Field」です。しかし、そのフィールドに負けないレベルの巨人が出てくると、もうまさに宇宙と宇宙のぶつかり合いのような凄まじいエネルギーが発散されるんですね。現実を改変していくようなビジョンであるとか、世界でも有数の巨大企業を経営するとか、ひとつの時代の基礎となるようなアーキテクチャを設計し、実装するとか、そういう途方もない質量を有する巨大な魂同士が、ある意味「ギャラクティック・ウォー」みたいなレイヤーで激しくぶつかり合いつつ、その下の方では人と人の個人としてのインターフェイスで接し合っている、繋がっているというのは、ある意味、人間の社会の本質なのかもしれませんが、この作品の凄みはまさにそれを上から下までひっくるめてすくい上げたところではないかと思います。

そういう複数の特異点を並べて、そこから眺めた時に、スティーブ・ジョブズが「歪曲」させた現実の空間というのは、実に素直に広がっていて、彼らの眼の前にはとても健やかで明るい宇宙が開けていたんだなぁ、と。なかなか爽快な作品でした。

あとあれです。ケイト・ウィンスレット。いい歳の取り方をしてきてます。本作でまたアカデミー賞にノミネートされていますが、彼女はもういいので、ある意味、同じ場所から飛び立っていったもう一人、レオナルド・ディカプリオに何とかそろそろ、などと思いました。(ジョブズ関係ない)

[movie] 写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと

Saul Leiter トマス・リーチ監督による、写真家ソール・ライター本人に対する取材・インタビューで構成されたドキュメンタリーです。2011年から撮影されていたようですが、映画の公開後ほどなく、2013年、ソール・ライターは89歳で亡くなっています。期せずして、偉大な写真家の晩年の姿を捉えた作品になってしまったわけです。

タイトルに「13のこと」とあるように、全体を13幕に区切って、それぞれのトピック、テーマでソール・ライターとの対話や、彼と街を歩いたり、プリントを委託しているギャラリーを訪れたりするクリップをまとめているんですが、やはり何といってもところどころに挿入されるソール・ライターの作品が実に素晴らしくて、その時点でもう満たされてしまいます。黒いスクリーンに彼の作品の、ピンクの傘などの鮮やかな色彩が非常に印象的でした。ちょうど『キャロル』を観てきたところでもあり(同作の監督トッド・ヘインズ自身が、自作とソール・ライターとの関わりについて幾つかのインタビューで述べています)、予感のような期待を抱いていたわけですが、なんというか「『キャロル』の美しさの源流のひとつ」のような作品群について、ライター自身が語る言葉を聞いていると、「ガラスの向こう」の奥行きだけでなく、反射として写り込んでいる「こちら側の世界」であったり、その隔てられた視点であったりといったいろいろな要素について、理解の解像度が上がったり、感覚の抽象度が上がったりするような気がしてきます。

もうひとつ印象的なのが、ソール・ライターという人の「語り」そのものです。実に理知的に、破綻なく、滔々と、それでいて即興的に語り続けるんですね。広く深い語彙の中から言葉を「正しく」繋ぎながら、その場のひらめきの中でふわふわと空中に浮かんだ「何か」を捉えようとするという語り口というか。本当に思いつきで、何を言うつもりという事前の意図を固めずに話し始めているように見えるんですが、つらつらと語りながら、きっちり文章を文章として整合させつつ、何かを捕まえて着地する。ソール・ライターは皮肉なユーモアの持ち主でもあるんですが、その一方、確固とした姿勢を貫きながらファインダーを覗き続け、世界を見据え続けてきた人だけが辿り着く、ひとつの境地が滲んでいるような語りでした。たとえば彼がしゃべっているのを2時間聴く、というだけでも十分に作品として成立するんじゃないかというレベルです。

あと、彼を取り巻く「環境」もあれこれと取り上げられているんですが、アシスタントであるマルギットや飼い猫のレモンも、ある意味「散らかりまくったガラクタ積み上げ放題の部屋」すらも奇妙に美しく、やはりこういう人の周りには、やはり自然と絵になるものが集まるということなのか、実に魅力的で、ドキュメンタリーである本作に極めて映画的な魅力を添えています。

で、本作の「映画的」な魅力というところでいうと、もうひとつ。彼の人生上のパートナーであった「ソームズ・バントリー」の存在と、彼自身の家族や生い立ちの話があります。

自身が撮影者でありインタビュアーであるトマス・リーチはその2点について、ソールが自ら語る以上の言葉を引き出すことをしていません。ここではその内容については触れませんが、この2点があるがために、「皮肉っぽいけれどユーモアにあふれた、温和な老人の一人語り」の背後に、黒々とした大きな空洞がぽっかりと口をひらいていきます。写真家としてのキャリアを確立し、「過不足ない人生」を送り、そしてそれを静かに閉じようとしている老人が、自分の冗談で思わずくすくす笑うときのその笑顔が、具体的には描かれない「それ」を受け入れた上でのものである、ということだけが、事実として観客に提示されるわけです。最近改めて気づいたんですが、こういう「描かないことで描く」「欠落による暗示」というのは、けっこう個人的な好みにはまるんですね。

もちろん最初に挙げたソール・ライターの美しい写真と、彼本人の魅力的な語り口、というのがこの作品自体の魅力として際立っているのは間違いないんですが、監督であるトマス・リーチの存在が、この作品をそれだけ切り出して貼り付けたものでは終わらせずに、強い映画として観客に迫るものにしていると思います。

とまぁ、映画は実に素晴らしかったんですが、劇場になぜか猫のトイレの臭いが漂っていたのが唯一の難点で。とりあえずあれだけ散らかった中で猫を飼っているソールの部屋もこんな臭いだろうなぁと考えることで臨場感を増す方向でその場は解消したのですが、一体あれは何だったのか…

[movie][camera] 『キャロル』に出てきたカメラ

ちょっと脇に逸れますが。 『キャロル』でルーニー・マーラが演じているテレーズは、デパートに勤めつつも、密かに写真家に憧れている、という女性で、彼女が自分のカメラで撮影したキャロルの写真は作品全体の中でも重要なモチーフになっているわけですが、ちらっと映るそのカメラが、ルーニー・マーラの手に中にあるせいなのか、何とも魅力的です。

Therese with Argus

 

ということで、ちょっと調べてみました。

まず、最初からテレーズが使っているカメラ。

argus-c3

これは、1939年にArgus社から発売された同社Cシリーズの3モデル目で、比較的安価だったことと「レンガ(Brick)」の愛称の元となったそのデザインによって人気を博し、27年にわたるロングセラーとなったものです。映画の舞台が1950年代なので、当時はまだ現役のモデルです。当然ながら完全にマニュアルで、劇中でのテレーズの取り回しもなかなかぎこちない感じだったのが印象的ですが、実はこのカメラの後期のバージョン違いが、ハリー・ポッター・シリーズにも出ていたりします。

Argus C3 in Harry Potter

ちなみに今買おうとするとヤフオクとかでは3000円から5000円といった辺りで出品されているようです。(eBayも同じくらい)

安価モデルというだけあって扱いはややこしそうなのであまりお勧めはしませんが、個人的にはちょっと欲しい気もします。何の話だ。

で、さらに、キャロルからテレーズへのクリスマスプレゼントとして贈られるのが、キヤノンIIIaです。こちらは1951年の12月に発売されたモデルで、舞台となっている1952年時点ではキヤノンのフラッグシップ機でした。

canon_IIIA_1

こちらは今買おうとすると状態によってピンキリで1万円から7万円といったところでしょうか。ヤフオクではあまり出品がありません。

ちょうどこの頃、日本のカメラメーカーも徐々に足場が固まってきて、世界に打って出始めた時期なのですが、この後、ライカから当時としては決定的な競争力を持ったライカM3が登場し、本格的な開発競争が始まっていくことになります。

まぁ本当に、だからどうした、という感はあるわけですが、テレーズが永遠に残すことを願ったそのひとつひとつの瞬間を実際にフィルムに焼き付けた機械と同じものが今現在でも入手可能であり、当時と変わらぬ動作をする、ということには、実に魅力的な不思議さがあるような気がします。同じものを持って、同じような思いを胸に、同じように何かを願ってファインダーを覗いてみる、というのも、映画のひとつの楽しみ方なのではないか、と無理やりまとめつつ、eBayの出品をひとつひとつチェックしているところです。