[photo] EF35mm F/1.4L II USM

(1/250 sec at f/1.4, ISO 100)

※今回は特に断りのない限り、EOS 5DS R + EF35mm F1.4L II USMで撮ったRAWファイルをLightroomで後処理なしで素現像したものです。

EF35mm F1.4L II USMは、2015年9月に発売された、5DSシリーズ発売後の最初のLレンズですが、高解像度対応よりもむしろ「BRレンズ (Blue Spectrum Refractive Optics)」搭載を謳っていた印象が強く残っています。いわく「大口径レンズに発生しやすい色のにじみ(色収差)を大幅に低減し、撮影画面の中心から周辺まで優れた描写性能を実現」(キヤノン公式サイトの製品ページより)とのことで、光源の描写やボケが一味違う、という売り方。ある意味、ニコンの58mm f/1.4に通じるマーケティングという気もします。

ちなみに、公式にはもう一つ、製品紹介のページがあります。

一枚目、ボケ味もさることながら、銀色の鈴の金属面の描写が超好みです。これはヤバい。

    (1/320 sec at f/1.4, ISO 100)

うちの地元の辺りはもうすっかり過疎化が進んでしまっており、近所にも空き家が目につくのですが、潮を含んだ風の強い海辺ということもあって、寂れ感が半端じゃありません。気のいい年寄りしかいない地域でもあるので、落書きだの割れ窓だのといった人為的な荒れ方はしないのですが、雰囲気はずいぶん変わってしまいました。

 (1/1250 sec at f/1.4, ISO 100)

近所の神社には日本海沖で見つかった巨大な珪化木がご神体として祀ってあります。よくこんなものを海中から引き揚げたものだなと思うんですが、それはさておき、石化した木の表面の質感だけでなく、ほぐれた藁の柔らかい解像っぷりが、これまた超好みです。

(1/ 250 sec at f/1.4, ISO 100)

水盤に榊の枝。うちの地元の辺りでは神社にお参りすると大体、賽銭箱の右手側に丸い水盤があって、榊の枝が水に浸してあります。お参り前に雫を頭にふりかけると頭が良くなるとか言われてました。

(1/320 sec at f/1.4, ISO 100)

漁師町の神社なのでそれ系の神様の神社だと思うんですが、なぜか天狗面も祀ってあって、天狗のキーホルダーが売ってあったりします。極めて適当な感じで。EOS 5DS Rはこれまでのモデルと比べるとシャドウ部分のトーンの扱いがずいぶん改善した気がします。ダイナミックレンジ云々以前に、ノイズで荒れまくっていたんですが、センサーの性能なのか画像処理なのか、はたまた単純に粒が細かくなったからなのか、その辺はかなりよくなりました。

35mmという画角が元々あまり好みではなかったのですが、とりあえずこのレンズは非常に気に入っています。性能云々というところはあまりチェックしていないのですが、定番系のレビューはこちら。

 

あと数枚足して、Flickr上にAlbumにしてまとめてありますのでよろしければそちらもどうぞ(EF35mm F1.4L II USM @ lenslet blog on Flickr)。

 

[travel] 2015年 冬の帰省

実家は山口県の日本海側なのですが、今回は飛行機で帰ったため、恒例にしている往路・復路で一泊ずつの温泉旅館宿泊を省いた分、地元にほど近い温泉地にある、「大谷山荘」で食事をしてきました。鉄板焼きです。 鉄板焼きという食べ物は、今では割とメジャーなカテゴリというかもはやそれこそ鉄板であるような気がしますが、大谷山荘がずいぶん前に全面改装をしてこれを始めた時は、「鉄板焼きが地元で食べられる」というのは割と画期的なことでした。今回、何年か振りでしたが、相変わらずクォリティも十分で、かつ、お値段が(鉄板焼きとしては)非常にリーズナブルです。元々、うちの地元は漁港を中心に成立したような町なので、魚はそれこそスーパーマーケットで買ったものでも非常にうまいんですが、うまい魚が簡単に手に入りすぎて、続くとありがたみがなくなってしまうという贅沢な問題もあり、肉料理も選択肢として成立するというのはありがたい限りです。

まずは前菜、豚肉と鶏レバーのパテ。

一緒についている野菜のピクルスも控えめな味付けで美味でした。

続いて、ゴボウのポタージュ。

「おお、ゴボウだ」という感じで面白い味でした。

で、魚介。

右側はこの分厚さにも関わらず、何とヒラメです。地元の漁港で上がった5kgのヒラメだそうで。

この後、さらに焼き野菜を挟んで、いよいよメインの肉料理。

これ、霜降りということでしっかりサシも入っているんですが、それに負けない赤身の味がするナイスな山口県産の和牛ロースです。

さらに、このロースから切り分けた、非常に罪深い脂身がこんな感じで↓

調理されて、

大変罪深いガーリックライスとして出てきます。ヤバい。(さらにこの後フルーツ添えのクレーム・ブリュレが出てくるという罪深さ)

で、これだけ食べてずいぶんおトクだというのに、かつ2,000円相当の入浴券がセットでついてきます。何という圧倒的おトク感。大谷山荘の温泉はいわゆる大規模温泉旅館的な大浴場で、大きな風呂、ジャクジー、水風呂、寝風呂(横になって入れるようになっている)、サウナに川沿いの露天風呂が備わっていて、施設としては結構レベル高いんですが、宿泊なしで入ろうとすると2,000円かかるんですよね。帰省中は、お風呂の設備が大変年季が入っていていろいろ困難があるのでこういう外風呂についつい引き寄せられるんですが、それが単体でも十分満足できる食事におまけとしてついてくるというのは個人的には非常に大きなメリットです。お腹いっぱいになった後のんびりロビーなんぞで休んだ上で、最後に温泉に浸かって帰る。怒濤の贅沢感。

近場に秋吉台や秋芳洞といった割と一線級の観光資源もあるので、大河ドラマとかに頼らなくてももう少し盛り上げられると思うんですが、やっぱり交通の便ですかねぇ。地元の経済の行く末について一抹の不安を覚えつつ、とりあえず素敵な食事と温泉を満喫した一夜でした。

[movie] 完全なるチェックメイト

またしても「実話に基づく」です。

というか、トビー・マグワイアがチェックメイトする、くらいしか事前情報がなかったので、まさかボビー・フィッシャーものだとは思っていなかったのですが、おかげでとんだ不意打ちを食らってしまいました。

トビー・マグワイアは名演というか、実話だというのに当て書きじゃねえか、っていうレベルではまっているんですが、演技という観点ではライバルのスパスキーを演じたリーブ・シュライバーがなかなか素晴らしい演技をしています。

ただ全体的にいまいち、ちぐはぐ感があるというか、音楽であったり当時の映像クリップであったり、あるいは当時の映像風に加工した映像表現であったり、挿入される様々なものが何となくとっ散らかった印象を残した感があります。プロット的には最後のスパスキーとの決戦というところに収斂していくんですが、その結末の後、映画のラストがまた散らかるというか。

この映画、そもそも邦題の『完全なるチェックメイト』が意味不明なんですよね。クライマックスである24番勝負の第6局は実際にはチェックメイトではなく、スパスキーの投了で終わっていて、映画全体を見ても「チェックメイト」が暗喩として成立するようなモチーフもなく。じゃ、原題はどうなんだ、と見てみると、こちらは「Pawn Sacrifice」で、これも何だかよくわからず。ちょっと調べてみると、監督のエドワード・ツヴィックが「ボビー・フィッシャーもスパスキーも、それぞれアメリカとソ連の間の冷戦でのポーンの一つに過ぎなかった」とか言っているらしく、おいおい、そっちがテーマかよ、と後から悟る羽目に。言われてみればそういうシーン多かったよ!

まぁちょっと根本的に勘違いして観ていたようなので感想も的外れになってしまう気がしますが、とりあえず、その第6局はよかったです。『セッション』を観た時に「音楽というもの」という概念がキーになって、というところがあったわけですが、ある意味で、それに通じるような「チェスというもの」「チェスプレイヤーという人々」という概念レベルでの共鳴をほのかに感じさせる部分があって、そういうのはやはり大好物なので。

というわけで、トビー・マグワイアがチェックメイトしなかったわけですが、そうかーボビー・フィッシャーかー、というような歯切れの悪さを残してとりあえず記事を閉じることにします。(なんだそれ)

[movie]  クリード チャンプを継ぐ男

 

2016年の2本目は、こちらもできれば昨年中に観ておきたかった期待の一作。 ※今回ちょっとネタバレというか、作品の内容について具体的な言及があります。

やはり、同じく再始動した一大シリーズであるスター・ウォーズと比して語られることが多いように思われる当作ですが、こちらも『フォースの覚醒』と同じく、批評家、マーケットともに好評をもって迎えられているようで何よりです。

個人的にはもう本当に大詰め、というところまでは「ふんふん」と観ていたのですが (時折挿入される音楽に言うまでもなく泣かされながらですが)、最後の試合の前のアドニスの台詞、「(prove) I'm not a mistake.」で完全に持って行かれました。時々、こういう「たった1行ですべてを持っていく一撃」というのがあります。映画の醍醐味の一つですね。

いろいろ映画を観ていると、登場人物の「魂」とか、その人物の「人間としての全存在」が、その「人生の質量」が一瞬の内に実体化してくる奇跡のような瞬間に出会うことがあります。なんとなく、それはプロットの組み上げ方であったり、描写や情景の積み重ねで作り上げるものだという漠然とした思い込みのようなあやふやな認識があったんですが、たった一言のセリフでもそれが発生することがあるんだなぁ、と今回思い知らされました。

もちろん、今作でも、そこに至るまでに積み重ねられているものはあって、それは当然、監督と俳優の技量でもあるのですが、この映画をについては何というか、この1行のセリフがなかったら「普通のいい映画」だったと思うんですよね。あー、よかったね、レジェンド級のシリーズのリブートとして失敗しなかったよね、と。

ところが(まぁあえて断るまでもなく個人的なものだとは思うんですが)、このセリフがそこまでのすべてを一瞬で塗り替えるというか、ここで突然、アドニス・クリードが生身の血肉を持って心の中のリングに立ち上がったというか。そのポイントに至るまで、ロッキーの話なのか、アポロの息子の話なのか判然としなかった部分が急に明確な輪郭を結んで、そこまでの約100分が二十数年分のアドニスの人生に瞬時に変成して、映画全体がアドニス・クリードという人間の話としてめきめきと「存在し始める」ような、恐ろしい瞬間でした。涙腺とかもうそんな甘っちょろいものじゃない何かが決壊です。

この作品に限らず、私自身は、そういう「致命的な一撃」を求めて映画を観ているようなところがあるんですが、そういう「体験」というのは本当に微妙なバランスを必要とするもので、かつ、それが成立する構造が作品の中に閉じていない、ということを最近、つくづく感じています。ちょっと古いところでいうとケネス・ブラナーの『フランケンシュタイン』の「He never gave me a name.」のところでも似たような一撃を喰らったりしてるんですが、人それぞれ、自分の中に響くものを持っていて、それがガツンと共鳴するような瞬間がその「一撃」だとすると、やはりラッキーパンチというか、特に映画の方に工夫も創意もなくてもたまたま響くということはありうるわけです。(『フランケンシュタイン』を悪く言っているわけではなく)

で、ちょっと作品を離れて思うのは、映画自体の作品としての客観的な完成度の一つの尺度は、ピンポイントで響く個別の音叉のないところから、映画を観ていく中で観るものの中にそれを立ち上げて響かせる、というところにあるのかもしれない、ということなんですが、観ている当人にとっての主観的な価値は、それが手持ちの音叉であろうと映画の中で生まれたものであろうと、響きさえすればいい、というのも間違いないところで、この辺りは、映画について語る時に常に自覚しておくべきなのだろうという気がします。自分が評価しているそれは、映画そのものなのか、自分がその映画を観ることによって得た体験なのか。しかしまぁ、じゃ前者の観点で見た時に、観る人の心に音叉を作るのがうまい監督がいい監督なのかと言ったら必ずしもそうでもなく、この辺は実に難しいところです。

適当に書き散らかして盛大に発散してしまいましたが、とりあえずこの暴走も『クリード』を観た余波みたいなものなのでやはりそういうパワーのある映画だったと思います。

[movie]  黄金のアデーレ 名画の帰還

本当は2015年中に観ておきたかった一作だったのですが、いやいやいや、大傑作ですよ。これを観てたらまたランキングが面倒なことになってましたね。

この作品は、語弊はありますが、言ってしまえば、演出は凡庸で、演技などにも特筆すべきところはありません。しかし、映画というのは、作り手や演者が才覚を見せびらかすまでもなく、傑作として成立しうるのだということがよく分かる作品というか。もちろん、ヘレン・ミレンの演技が下手とかそういうことではなく、といって「抑制の効いた」演技ということでもなく、主張の匂いをさせないというか、あえていうなら「正直」という言葉が奇妙にはまるような感覚があります。

もちろん大前提として、この作品もまた、去年から散々湧いて出てきている「事実に基づく」系であって、例によって「史実」のパワーに乗っかった作品であるのは間違いないんですが、その扱いに「他意」が感じられないんですよね。色気を出していないというか。サイモン・カーティス監督の作品は他に観たことがないので、非常に乱暴な物言いになりますが、この人は何というか、すごく「普通の人」なのかなぁという気がしています。

そんな感じなので、正直、もう少し…と感じられる部分もあるのはあるんですが( 例えば雑誌記者フベルトゥスの絡め方とか)、その一方でそもそも肖像画のモデルとなったアデーレ役のアンチュ・トラウェが完璧だとか、ローダー家の人がやけにキャラ立ちまくってるとか、何やかやで帳消しというか。

まぁ2015年のランキングでも書きましたが、ナチスに収奪された美術品をあるべき人の元へ返す、っていう時点でガタガタ言わずに応援しろ、という話なんですが、やっぱりこういうのにつくづく弱いです。法廷劇風味とかは薄くて、アカデミー賞女優ヘレン・ミレン!とか『ラッシュ プライドと友情』のニキ・ラウダ役のダニエル・ブリュールが!とかいうのもあんまり効いてないつくづく味付け控えめな映画なんですが、映画として優れているかどうかはさておき(おいちゃうのか)、すごく好きな映画でした。『ミケランジェロ・プロジェクト』と並んで、「ナチスから美術品を取り戻す映画」の最高峰と言っていいでしょう。2016年ランキング暫定一位です。(まだ一本しか観てない)

しかし、原題 'Woman in gold'が劇中で意味を持つキーワードとなっていることを考えると、この邦題はどうかなぁ、という気がちょっと。