[movie] ちはやふる ー 上の句 ー

ちょっと順番が前後してしまったのですが、滅多に邦画を観ない私が、世間(の一部)に漂うあまりに不穏な空気にいても立ってもいられなくなって憚りつつ劇場に足を運ぶことになった(そしてその後通算5回運ぶことになった)作品、『ちはやふる ー上の句ー』です。(実際には前二つの『レヴェナント』と『ズートピア』の前に観てました。)

もう一度書きますが、私は滅多に邦画を観ません。好き嫌いというほど強い話でもないのですが、そもそもアンテナをハリウッド方面にしか張ってませんし、たまたまWOWOWなんかでちょっと前の話題作なんかを目にしても、やはり何となく波長を合わせ切れないなぁということが多いので、どうしても足が遠のくというか食指が伸びない感が年々深まっていたところでした。そしてこの作品にもその「波長が合わない」ところは結構あって、率直なところ、作品自体の客観的な完成度とかについては一言ならず言いたいことがあるんですが、それでも。

これを書いている現時点で、2016年の劇場公開作は50本ちょっとですが、今のところぶっちぎりのベストです。それも、『スポットライト』や『オデッセイ』を押さえての一位なわけで、これはもう個人的には超弩級の大事変と言ってもいいレベルです。

とりあえず書き終わった時にすっきりしていたいのでまず気になるところから先に書きますが(好物を後に残すタイプ)、やはり邦画において厳然として存在する限界がこの作品にも色々と枷を嵌めている感はあります。特に俳優の演技や笑いの取り方とかの演出が口に合わないというか、たとえば端的にいうと、「何気ない会話」が「ぜんぜん何気なく聞こえない」わけです。

この辺はキャスト陣の経験なのか技量なのか脚本なのか演出なのか監督の演技指導なのか正直何とも言い難い部分ですが、個人的には音声の録り方による部分もあるのか、という気がしています。映画撮影における音声録音とか再現の技術とかそういう方向にはまったく疎いんですが、微妙な違和感というかなんというか。この辺りは今後、テーマとして少し掘り下げていきたいところ。

で、そういったことも含め、特に前半、とにかくいろんなところに少しずつ引っかかる喉越しのせいで、スムーズに没入できない感覚が残ります。「こんなところにマンションできたんだ」とかそういう頭で考えたような「目的」が先に見えてくるような、むき出しのネジのようなセリフはいらないし、人が一対一で話してる時にはそんなに「笑い声」を出して笑ったりしないし、取ってつけたようなCGが本当に取ってつけたようになってる部分があるし。ついでに言うと後半も、死んだように眠るというキャラクター付けについては2回目は、特にクライマックスの中でやるんならもう少し小さくていいと思うわけです。

しかしながら。

それでもなお、観終わった後には、というか、何度観ても、「大傑作だったなぁ」と思ってしまうわけです。とにかく、中盤以降の没入が凄いんですね。この作品は世間的にも概ね好評だったようなので私だけのことではないと思うんですが、個人的にはやはり、「競技かるた」の肉体感覚をドライブする「映像力」と後半のプロットの構造自体、三段ロケットで巨大な推進力を生み出している「ストーリーの駆動力」に完全に持っていかれている、という感覚があります。

前者の「競技かるたの映像力」については、スーパースローも駆使したスポーツとしての映像化のレベルもさることながら、礼に始まり礼に終わる「所作の美しさ」も合わせてしっかりと捉えていて、「かるた」という題材に対する作り手の敬意というか真摯な向き合い方が、成果としての映像のレベルの高さにつながっているように思います。単に映像として美しいとか完成度が高いというだけではなくて、作品が目指す方向に完全に収斂して一つのゴールに向かってブレなく全体を推し進める力になっているというか。映像だけが浮いているようなひとりよがりの違和感がないんですね。生み出された映像が描写するものが、競技の緊張感とか、選手たちのひたむきさとか、作品の骨であり肉である「本質」そのものになっているところが素晴らしくて。これはもう素直に、監督の采配というか、力量なのかなぁという気がします。映像美に無駄がない、というのは実はけっこう難しいことですし。

引きの映像も隅々までちゃんとしていて、最終戦の決着時、俯瞰の映像の左側で肩を震わせる「敗者」の演技とかもう本当に「行き届いて」いる感じで、画面のどこを見ても、その場で発生している情動がブレるどころかむしろ的確に支えられる感があります。

一方、もう一つのストーリーの「構造の駆動力」というところなんですが、これはもうまず脚本が見事なんだと思います。上記の通り、丁寧に作り上げられた映像による「情感の高め方」がすでに見事なわけですが、そこに決定的な加速力を与える機械的な構造というか、テコを使えば大きなエネルギーが生み出せるとか、ギアボックスを噛ませれば速度を増大できるとか、そういうレベルで、「メカニズム」として大きな効果を生み出すプロット構成になっているわけです。中盤からの流れは本当に見事だと思うんですが、特に大会当日、最後のステージの中で「机くん」→「千早」→「太一」の順で畳み掛けるように展開する「三連カタルシス」はロケットがブースターをどんどん切り離しながら一気に大気圏外まで駆け上がっていくような素晴らしい解放感をもたらしていました。

特に机くんはとんだ伏兵というか、それこそストーリーの要素の「数合わせ」的に配置された類型的な優等生キャラクターかと思いきや、突然、文字通り爆発的な演技で場を持っていき、見事にこの一連のクライマックスの幕を切って落とします。ここで足をすくわれたらもう後はジェットコースターのようにどんどん加速しながら運ばれていくばかりで、最後の太一の運命戦まで終わったらもう完全に魂が宇宙に運ばれてしまっているので、その後はもうどんな技が来てもまともに決まるという状態になるんですが、そこにまたあの一連のエピローグと『下の句』への引きが見事なわけです。

なんというか改めて考えると中盤以降が本当に巧みすぎて、何かこう、「何がそこにあるのか」ということを考えてしまいます。単純に人知を超えた確率変動的な何かが起きていたのか、制作側が狙って起こした活性状態の産物なのか、それともこういうものが必然的に作られていく何らかの初期条件があるのか、それともあるいは、単純にこの全てが主観的な揺らぎであって、この作品によって受けた衝撃はむしろ、自分が元々持っていたものが元素転換的に爆誕したものなのか。

感覚的には、考えてみるべきポイントも、そこから得られる結論も何か一つの単純なものということはない気がしますが、とにかく、こういうあれやこれやを一気に突き抜けて一気にランキング枠外、みたいなことになる作品との出会いはありがたいものです。特に今作は前半で足踏みしたがゆえに相対的に「突破感」がさらに強く、当面、頭のてっぺんに貼り付いたままの作品になりそうです。

とりあえず原作は『下の句』まで観てから読もう、と思っていたんですが、『下の句』を観て、さぁ結局どうなるんだよ、と思っていそいそと読み始めたら実は原作もまだ完結していなかったということで吐血している昨今です。

[movie] ズートピア

Zootopia 製作総指揮ジョン・ラセター、監督にバイロン・ハワードとリッチ・ムーア、声優にはイドリス・エルバやJ.K.シモンズを配し、まさに隙のない布陣で、満を持してディズニーがぶち込んできた、ある意味で宣戦布告のような作品です。

映画としては当然のごとく非常に高い完成度で作り込まれていて、逆に面白みがないくらいなんですが、随所に利かされたフィルムノワールっぽいテイスト、いろんなジャンルの過去の名作への目くばせ、アメリカ近現代史のエッセンス、ジェンダー問題、人種問題、職業問題といったあれこれを完全武装のパッケージに詰め込んで送り込まれていて、何というか、ディズニーという巨大生物がこれまでのホームグラウンドからのそりと這い出て、本格的に他ジャンルの捕食を始めたような印象を受けるわけです。何というか、おいおいその線超えてくるのかよ、どこまで侵攻する気だよ、というか。

まぁしかしその辺はある意味余計な心配というか、それによって映画界全体が一層の激しい競合・切磋琢磨を通じてさらに進化していくこと、ディズニーというプレイヤーから、また別のジャンルで名作・傑作が生まれてくることを素直に期待していればいいわけですが、それにしても、こう来るか、という感懐はぬぐえません。そもそも『ズートピア』というタイトルからして何というか黒いですよね。今の世の中で「ユートピア」という言葉が内包する特有のえぐみというか、元々の意味からスタートして「嘘くささ」のような一段階目のねじれを経て最終的に至った、「現代社会でその語を放つときに空気中に漂い出す意味合い」を踏まえて、完全に狙って投げてる感というか。もちろん作品自体が肉食動物と草食動物との共存の裏に、という話をしているので、そこは腹黒なダブルミーニングとかではなく素直なタイトルでもあるわけですが、それでもディズニーがこういう言葉を元々の意味ではない形で持ってくるというのは、いよいよかぶりものを脱ぐぞ、というメタなクライマックスを感じます。

さて、実際の作品の方ですが、ディズニー伝統の、いわゆる無垢な物語の世界の基調は残して、そこはそのレベルで「ハッピーエンド」として綺麗に閉じておきつつ、その上に重ねられた一つ上の次元では実はそんなにシンプルな答えは提示していないという形になっている気がします。これは最近の『シュガー・ラッシュ』『アナと雪の女王』『ベイマックス』というラインアップからの発展形ではないかと思うんですが、たとえば映画の中でジュディが担当している「誰でも何にでもなれる」というテーマは、ベースのレベルでは彼女とニックが警官として認められる形でゴールする一方、じゃあ駐車違反の切符切りとか、誰もなりたくないものには誰がなるのか、という「裏面」については、ジュディの父母のニンジンづくりの話が提示されるだけに留まっていて、重ねられたレイヤーの方では簡単な紋切り型の結論は出していません。この辺は意図的なデザインだと思うんですが、そういう外に向かってひらけた「余白」をさりげなく配置しながら、あくまで基盤のレベルであるシンプルなストーリーの次元には余計なノイズは入れずにおく、というこのバランス感は、スタジオシステムというか、ノウハウとメソドロジーとシステムによって脚本を完成させていく今のディズニー・アニメーション製作の真骨頂という気がします。

まぁ、こういった完成度の高さを追求する仕組みが、それ単体だけで映画の面白さを保証するかというとそれはまた別の議論なんですが、この隙の無さ、抜け目なさは作品全体のあらゆるところで発揮されていて、たとえば笑わせどころとかもいちいちレベルが高いんですよね。非常に隙がない。ただナマケモノのところはあれは完成度とかいうレベルを超えた、この映画の唯一の特異点かもしれないという気はしますが。ああいうのはさすがに規格外であってほしいというか、再現可能な方法論であそこに到達できるなら、それはどうやっているのかぜひ知りたいものです。

なお、ちょっと本作そのものを離れた話になりますが、「シンプルな物語」としての一階部分と、何やらいろいろ隠微な感じの屋根裏部分という二階建て構造で考えたときの二階部分にいろいろ盛り込まれている要素は、昨今のハリウッド映画の傾向というか風潮のようなものにもリンクしている気がしていて、少し改めて考えてみた方がいいテーマのような気もしています。最近、実話に基づく話がやけに多かったり、1950~70年代が舞台になった作品が増えていたり、という今の状況は、アメリカという国が自分のアイデンティティを確かめ直そうとしているかのように(もしくは馴染みのあるものに回帰して安心しようとしているように)見えるんですが、今作は、それ自体はもちろん実話でもなく1950代にも70年代でもないにせよ、二階部分に詰め込まれた「美徳」や「価値観」がまさに同じ根を持っているように思われます。そうしたアメリカンな部分というのは、それはそれでもちろんアメリカ国民でなくても堪能できる普遍的なものではあるんですが、受け手としては作品が根ざす地盤と自分自身が根ざす地盤の連続性と不連続性を踏まえ、つなぎ目や切れ目を込み込みで味わっていく方が楽しそうだなぁ、という辺りがこの映画に関する自分の着地点でしょうか。 字幕は石田泰子さんで、この辺もまた隙がなかったです。

[movie] レヴェナント: 蘇りし者

news_xlarge_TheRevenant_poster アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督が前年の『バードマン あるいは (無知がもたらす予期せぬ奇跡)』に続いて二年連続のアカデミー監督賞を受賞し、かつ、レオナルド・ディカプリオに悲願の主演男優賞をもたらしたクマ映画です。クマ度について言えば、ハリウッド映画史上に新たな金字塔を打ち立てたと言っていいのではないかと思われるレベルで、クマの大きさやその膂力だけでなく、息遣いや重量感、体毛のゴワゴワ感までをしっかり描き切った手腕は見事という他ありません。

またこの作品を語る上では撮影監督のエマニュエル・ ルベツキ(彼も『バードマン〜』に続いて撮影賞を受賞しました。その前の『ゼロ・グラビティ』から数えて何と三年連続)の存在も欠かせないわけですが、この人もまた自分の立ち位置をフルに活かして好き放題やっていて、特に全編を通じてほぼ自然光のみで撮影、という現代の映画作りの中では狂気としか言いようのないこだわりで物凄い「絵」の奔流を生み出しています。

実際、本当に凄まじい作品なわけですが、このイニャリトゥ監督の作品というのは、私自身が無意識に映画というものに対して想定している「体裁」とか「フォーマット」的なものがすり抜けてしまうというか、投射しようとするこちらの期待とあまり互換性がなくて、その部分が期せずして独特の味わいを生んでいるような気もします。何というか、イニャリトゥ監督は「映画」というものを「制作」するというよりは、自分の「作品」という、映画云々以前のもっとプリミティブな輪郭を持つ何かをフリーハンドで「デザイン」しているような、と言ったらいいんでしょうか。

そういう意味では、この作品はもちろん素晴らしいわけですが、あくまで個人的な感覚としては、それは映画という定型の評価軸上の素晴らしさというよりは、イニャリトゥ監督が、ディカプリオの鬼気迫る演技だとか、ルベツキの研ぎ澄まされた「画」力を思いのままに組み上げて作った156分という「経験」の素晴らしさという気がするわけです。

この辺りは個人の好みもあると思うんですが、何よりもまず「ストーリー」という要素の位置付けが希薄というか、例えば『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が、ストーリーの純度を高めた結果、「神話」のように抽象化・普遍化された、という言い方をするなら、今作はさらに抽象化が進んだ結果、ストーリーという枠組みすらも脱却して「星座」になってしまったというか。プロットとして「紛糾」が提示されて「解消」に至るという当たり前の流れが、ほとんど透明と言っていいレベルになっているように感じられます。なので、今作が非常に高く評価され、監督賞、主演男優賞、撮影賞を獲得しつつも作品賞受賞には至らなかったという結果は割としっくりくるというか。

ただそれはもちろん、この作品が映画としてどうだこうだ、ということではなく、やはり極上の逸品であることは論を俟たない話であって、ため息どころか魂が漏れそうなほどに美しい映像の中、ディカプリオの全身全霊をかけたような演技を堪能するというのはちょっと他では得がたいような素晴らしい時間には違いありません。(というか、本当に今作でのディカプリオの演技とルベツキの映像はちょっと常軌を逸しています)

というようなことをつらつらと思うわけですが、とりあえず作品を堪能して、そしてしばらく時間をおいて消化吸収もひと段落終わった上での結論としては、ディカプリオおめでとう、という感じではあります。あとクマとかよかったなー、みたいな。

なお字幕は松浦美奈さんでした。本当に当たり年です。

[movie] ボーダーライン

エミリー・ブラント主演、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による、ベニチオ・デル・トロ映画です。もう果てしなくベニチオで、救いようもなくデル・トロ、ところにより一時ジョシュ・ブローリンという感じに突き抜けた作品です。

今作は「実話に基づく」ではないんですが、極度にエスカレートしたメキシコの麻薬とマフィアの問題を題材に、絵空事ではない背景をベースにしつつ、エミリー・ブラントをダシにして執拗にベニチオを描いています。邦題はわざわざ『ボーダーライン』として、ポスターでも「善悪のボーダーラインは云々」等と「親切設計」に改めているわけですが、そもそも原題「Sicario」は、メキシカン・ドラッグ・カルテル界隈では「Hitman」的な意味で使われる言葉だそうで、明確にベニチオ・デル・トロ演じるアレハンドロ自身を指しています。

たしかにCIA主導のいかがわしい超法規的捜査だったり、それに巻き込まれた女性捜査官ケイト(エミリー・ブラント)の、自分自身の正義との葛藤だったり、あるいは舞台であるアメリカとメキシコの国境そのものと、そのこちら側と向こう側での世界の対比だったり、「ボーダーライン」というものが非常に大きな、作品の主要モチーフであることは間違いないんですが、やはりこの映画はベニチオ・デル・トロが演じるアレハンドロの映画だと思うわけです。

キャラクターの造形としてはある意味でシンプルな「復讐者」ではあるんですが、これをベニチオ・デル・トロが演じていることで意味が生まれているというか。終盤、麻薬王と食事の席で対峙するシーンなどは、それ自体がこの映画の「コア」と言っても差し支えないレベルになっています。

また撮影監督のロジャー・ディーキンスがまたしても地位と名声をいいことに(しているかどうか知りませんが)「好き放題」やらかしていて、前半の高速道路のシーンもまたこの映画の「コア」と言っても(以下同文)

ということで、善悪の彼岸此岸といったいかにもそれっぽいテーマなどはさておいて、「映画」を作ろうとして「映画」を作った、というような動機の純粋さが心地よい作品です。あと個人的には、『ゼロ・ダーク・サーティー』が開いた新しい何かを、ハリウッドとしてフランチャイズ化していくような戦略的な思惑もあるのかなという気が。続編の話もすでにあるようで、こういうソリッドでドライな背景と舞台に、裏面に秘めたウェットさをほのかに滲ませるような感じでベニチオ・デル・トロのシリーズが続いていくならそれはそれで大歓迎ではあります。

字幕は松浦美奈さん。今年は当たり年ですね。

[movie] グランドフィナーレ

英国が誇るおじいちゃん俳優マイケル・ケインを引退した音楽家として主演に配し、「老い」ということ、そして「人生の幕引き、あるいは清算」ということを鮮烈に描いたパオロ・ソレンティーノ監督作品です。邦題は『グランドフィナーレ』ということでやや仰々しくなっていますが、原題はシンプルに『Youth』というちょっとピリっとしたタイトルになっていて、この舌に触る辛さというか風味のようなものが、この作品の肝のような気がします。苦いような辛いような、一粒で何百円もするようなチョコレートのような味わいというか。

自分自身が中年時代もそろそろ後半戦に入ろうかという歳になり、また自分の親の人生というものを、自分とは別の個人のものとして客観視できるようになって、この「老境」というものがまた違った見え方をしてきている昨今、この手の作品はこそばゆいほどに深く響いてくるわけですが、今作についてはマイケル・ケインだけでなくハーヴェイ・カイテルとジェーン・フォンダがまた非常にあざとい演技をしていて大変困ります。特にジェーン・フォンダはスクリーンに出ている時間はほんのわずかなんですが、その登場シーンも退場シーンも研ぎ澄まされまくっていて、様々な人生を歩んできた登場人物たちが、その人生の終幕に向き合う、というプロットに、単純な「ほろ苦さ」以上のものを添えています。この辺りはもうさすがという他ないんですが、それにしてもジェーン・フォンダのこの登場シーンよ。

主演のマイケル・ケインの方も、これはもう、そこにいるだけで「老い」というものが瑞々しく描かれてしまうレベルのおじいちゃん俳優なわけですが、その彼が演じる主人公の「人生」を織り上げている、彼自身と、娘と妻、そして彼の作品「シンプル・ソング #3」の「組み上がり方」は実に巧みで、ストーリーの構造自体にため息が出るというか、迂闊にシンプルな共感を抱くと壊してしまいそうで、取り扱いに躊躇いを覚えるほどです。

いつか自分の人生を手にとって眺めてみて、それ以上付け足すものも引くべきものもない、と思う時があったとして、それが満足なのか諦観なのかは分かりませんが、そういう思いを持って、それをたとえば日の差す部屋の窓辺に置いていくような、そういう幕引きができるとしたら、というようなことを思う映画でした。何が言いたいのかよくわからない感じですが、まぁそんな感じの。

なお、字幕は松岡葉子さんでした。