[movie] ズートピア

Zootopia 製作総指揮ジョン・ラセター、監督にバイロン・ハワードとリッチ・ムーア、声優にはイドリス・エルバやJ.K.シモンズを配し、まさに隙のない布陣で、満を持してディズニーがぶち込んできた、ある意味で宣戦布告のような作品です。

映画としては当然のごとく非常に高い完成度で作り込まれていて、逆に面白みがないくらいなんですが、随所に利かされたフィルムノワールっぽいテイスト、いろんなジャンルの過去の名作への目くばせ、アメリカ近現代史のエッセンス、ジェンダー問題、人種問題、職業問題といったあれこれを完全武装のパッケージに詰め込んで送り込まれていて、何というか、ディズニーという巨大生物がこれまでのホームグラウンドからのそりと這い出て、本格的に他ジャンルの捕食を始めたような印象を受けるわけです。何というか、おいおいその線超えてくるのかよ、どこまで侵攻する気だよ、というか。

まぁしかしその辺はある意味余計な心配というか、それによって映画界全体が一層の激しい競合・切磋琢磨を通じてさらに進化していくこと、ディズニーというプレイヤーから、また別のジャンルで名作・傑作が生まれてくることを素直に期待していればいいわけですが、それにしても、こう来るか、という感懐はぬぐえません。そもそも『ズートピア』というタイトルからして何というか黒いですよね。今の世の中で「ユートピア」という言葉が内包する特有のえぐみというか、元々の意味からスタートして「嘘くささ」のような一段階目のねじれを経て最終的に至った、「現代社会でその語を放つときに空気中に漂い出す意味合い」を踏まえて、完全に狙って投げてる感というか。もちろん作品自体が肉食動物と草食動物との共存の裏に、という話をしているので、そこは腹黒なダブルミーニングとかではなく素直なタイトルでもあるわけですが、それでもディズニーがこういう言葉を元々の意味ではない形で持ってくるというのは、いよいよかぶりものを脱ぐぞ、というメタなクライマックスを感じます。

さて、実際の作品の方ですが、ディズニー伝統の、いわゆる無垢な物語の世界の基調は残して、そこはそのレベルで「ハッピーエンド」として綺麗に閉じておきつつ、その上に重ねられた一つ上の次元では実はそんなにシンプルな答えは提示していないという形になっている気がします。これは最近の『シュガー・ラッシュ』『アナと雪の女王』『ベイマックス』というラインアップからの発展形ではないかと思うんですが、たとえば映画の中でジュディが担当している「誰でも何にでもなれる」というテーマは、ベースのレベルでは彼女とニックが警官として認められる形でゴールする一方、じゃあ駐車違反の切符切りとか、誰もなりたくないものには誰がなるのか、という「裏面」については、ジュディの父母のニンジンづくりの話が提示されるだけに留まっていて、重ねられたレイヤーの方では簡単な紋切り型の結論は出していません。この辺は意図的なデザインだと思うんですが、そういう外に向かってひらけた「余白」をさりげなく配置しながら、あくまで基盤のレベルであるシンプルなストーリーの次元には余計なノイズは入れずにおく、というこのバランス感は、スタジオシステムというか、ノウハウとメソドロジーとシステムによって脚本を完成させていく今のディズニー・アニメーション製作の真骨頂という気がします。

まぁ、こういった完成度の高さを追求する仕組みが、それ単体だけで映画の面白さを保証するかというとそれはまた別の議論なんですが、この隙の無さ、抜け目なさは作品全体のあらゆるところで発揮されていて、たとえば笑わせどころとかもいちいちレベルが高いんですよね。非常に隙がない。ただナマケモノのところはあれは完成度とかいうレベルを超えた、この映画の唯一の特異点かもしれないという気はしますが。ああいうのはさすがに規格外であってほしいというか、再現可能な方法論であそこに到達できるなら、それはどうやっているのかぜひ知りたいものです。

なお、ちょっと本作そのものを離れた話になりますが、「シンプルな物語」としての一階部分と、何やらいろいろ隠微な感じの屋根裏部分という二階建て構造で考えたときの二階部分にいろいろ盛り込まれている要素は、昨今のハリウッド映画の傾向というか風潮のようなものにもリンクしている気がしていて、少し改めて考えてみた方がいいテーマのような気もしています。最近、実話に基づく話がやけに多かったり、1950~70年代が舞台になった作品が増えていたり、という今の状況は、アメリカという国が自分のアイデンティティを確かめ直そうとしているかのように(もしくは馴染みのあるものに回帰して安心しようとしているように)見えるんですが、今作は、それ自体はもちろん実話でもなく1950代にも70年代でもないにせよ、二階部分に詰め込まれた「美徳」や「価値観」がまさに同じ根を持っているように思われます。そうしたアメリカンな部分というのは、それはそれでもちろんアメリカ国民でなくても堪能できる普遍的なものではあるんですが、受け手としては作品が根ざす地盤と自分自身が根ざす地盤の連続性と不連続性を踏まえ、つなぎ目や切れ目を込み込みで味わっていく方が楽しそうだなぁ、という辺りがこの映画に関する自分の着地点でしょうか。 字幕は石田泰子さんで、この辺もまた隙がなかったです。

[movie] ザ・ウォーク

The Walk JP ロバート・ゼメキス監督、JGLことジョゼフ・ゴードン=レヴィット主演の、「実話に基づく」です。ロバート・ゼメキスといえば押しも押されもせぬ『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズの監督ですが、個人的には劇場で観るのは1994年の『フォレスト・ガンプ』以来になります。

今年ここまで8本観て、実に5本目の「実話に基づく」で、ハリウッドは本当に大丈夫なのか、と心配になってきていたんですが、そんな心配も強烈なビル風で吹き散らしてくれる、極めてパワフルな作品でした。これです。こういう「ものすごい実話」を土台に、さらに「とんでもない映画体験」に引き込んでくれる二段階推進ロケットが観たいわけです。

話の筋立てはシンプル極まりなく、「変人が地上400メートル以上の高層ビルの間を『綱渡り』する」というもので、ネタバレもへったくれもありません。結末は最初から見えていて、何が怖いかも最初から分かっている、バンジージャンプのような映画です。事前に設定されている「目標」は「綱渡り」をどう描けるか、というこの一点だけ。

…ではあるんですが、映画全体の作りは実にロバート・ゼメキスで、クライマックスの実際の「綱渡り」に至るまでの語り口が実に特徴的というか、『フォレスト・ガンプ』でも印象的だった、ちょっとしたCGによる「幻視のアクセント」がちょこちょこと挿入されていて、ゼメキスのテンポに観客を巻き込んでいきます。正直、2016年の現在では、その細かなステップの設計に乗り損なう人もいるのではないかという気がするのですが、たとえば若き日のフィリップ(JGL)が独学で綱渡りを練習していくシーン、だんだん消えていくロープとか、時間の経過と彼の技術の向上を表現するのにくどくどと尺を使わず、わずか数秒の1カットで済ませる、というものすごく効率的なプロット運びで、その瞬発的な加速がある意味で観るものの足をすくってあとはなすがままに運ばれていく、という構造がデザインされていて、そこはもう乗るに限るわけです。そこからがゼメキスというジェットコースター。

で、このジェットコースターの最大のクライマックスである実際の綱渡りシーンについては、これについてはもうただただ自分で「体験」するに限るので多くは語りませんが、「綱渡り」自体については事前に明らかになっているにも関わらず、それでも人の予想を遥かに超える、というとんでもないことを達成していて、この辺りもゼメキスという巨大な凶器が観客を本気で殺しにきます。巨匠のくせにおとなげない。本当におとなげない。もう本当におとなげない。映画終わった後、手汗がものすごいことになっていたんですがさらに家に帰ると靴下に靴の色が写っていてどうやら足汗までかいていたようです。観ている間、頭の方はある意味で「歓喜の悲鳴」を上げていたんですが、体の方は相当しんどかったようで。

そしてその一大クライマックスの後で静かに収束していく終盤、個人的には実に鮮やかだと思う「裏面」の提示が行われます。ある意味で淡々と進行していたようにも見えた中盤で提示されている様々な要素がパタパタと再展開されて、繋がり直すというか。ここもある意味で『フォレスト・ガンプ』に通底すると思うのですが、この映画のメインプロットである、フィリップ・プティという稀代の変人や彼の「ザ・ウォーク」を描く流れの中でもう一つ組み込まれていた、ゼメキス自身の、アメリカという国、ニューヨークという街、そこに住む人々に対する大きな思いがファンファーレをともなって立ち上がってくるんですね。この辺も実に「おとなげない」というか、お前それ個人的なラブレターじゃねえか、みたいな感じで何とも清々しい感覚が残ります。実に爽やかな私物化。まぁそもそもこの映画は彼の私物なので異論は全くないわけですが。で、また私はこの手のネタに本当に弱いので、綱渡りで滅多刺しにされてよれよれになっていた魂はラストシーン、金色に輝く塔を登って見事に昇天していきました。南無阿弥陀仏。

芸達者なJGLやベン・キングズレー、ヒロインを好演したシャーロット・ルボンも一見の価値ありですが、とにかく「実話に基づく」のお手本のような作品でした。