[movie]  クリード チャンプを継ぐ男

 

2016年の2本目は、こちらもできれば昨年中に観ておきたかった期待の一作。 ※今回ちょっとネタバレというか、作品の内容について具体的な言及があります。

やはり、同じく再始動した一大シリーズであるスター・ウォーズと比して語られることが多いように思われる当作ですが、こちらも『フォースの覚醒』と同じく、批評家、マーケットともに好評をもって迎えられているようで何よりです。

個人的にはもう本当に大詰め、というところまでは「ふんふん」と観ていたのですが (時折挿入される音楽に言うまでもなく泣かされながらですが)、最後の試合の前のアドニスの台詞、「(prove) I'm not a mistake.」で完全に持って行かれました。時々、こういう「たった1行ですべてを持っていく一撃」というのがあります。映画の醍醐味の一つですね。

いろいろ映画を観ていると、登場人物の「魂」とか、その人物の「人間としての全存在」が、その「人生の質量」が一瞬の内に実体化してくる奇跡のような瞬間に出会うことがあります。なんとなく、それはプロットの組み上げ方であったり、描写や情景の積み重ねで作り上げるものだという漠然とした思い込みのようなあやふやな認識があったんですが、たった一言のセリフでもそれが発生することがあるんだなぁ、と今回思い知らされました。

もちろん、今作でも、そこに至るまでに積み重ねられているものはあって、それは当然、監督と俳優の技量でもあるのですが、この映画をについては何というか、この1行のセリフがなかったら「普通のいい映画」だったと思うんですよね。あー、よかったね、レジェンド級のシリーズのリブートとして失敗しなかったよね、と。

ところが(まぁあえて断るまでもなく個人的なものだとは思うんですが)、このセリフがそこまでのすべてを一瞬で塗り替えるというか、ここで突然、アドニス・クリードが生身の血肉を持って心の中のリングに立ち上がったというか。そのポイントに至るまで、ロッキーの話なのか、アポロの息子の話なのか判然としなかった部分が急に明確な輪郭を結んで、そこまでの約100分が二十数年分のアドニスの人生に瞬時に変成して、映画全体がアドニス・クリードという人間の話としてめきめきと「存在し始める」ような、恐ろしい瞬間でした。涙腺とかもうそんな甘っちょろいものじゃない何かが決壊です。

この作品に限らず、私自身は、そういう「致命的な一撃」を求めて映画を観ているようなところがあるんですが、そういう「体験」というのは本当に微妙なバランスを必要とするもので、かつ、それが成立する構造が作品の中に閉じていない、ということを最近、つくづく感じています。ちょっと古いところでいうとケネス・ブラナーの『フランケンシュタイン』の「He never gave me a name.」のところでも似たような一撃を喰らったりしてるんですが、人それぞれ、自分の中に響くものを持っていて、それがガツンと共鳴するような瞬間がその「一撃」だとすると、やはりラッキーパンチというか、特に映画の方に工夫も創意もなくてもたまたま響くということはありうるわけです。(『フランケンシュタイン』を悪く言っているわけではなく)

で、ちょっと作品を離れて思うのは、映画自体の作品としての客観的な完成度の一つの尺度は、ピンポイントで響く個別の音叉のないところから、映画を観ていく中で観るものの中にそれを立ち上げて響かせる、というところにあるのかもしれない、ということなんですが、観ている当人にとっての主観的な価値は、それが手持ちの音叉であろうと映画の中で生まれたものであろうと、響きさえすればいい、というのも間違いないところで、この辺りは、映画について語る時に常に自覚しておくべきなのだろうという気がします。自分が評価しているそれは、映画そのものなのか、自分がその映画を観ることによって得た体験なのか。しかしまぁ、じゃ前者の観点で見た時に、観る人の心に音叉を作るのがうまい監督がいい監督なのかと言ったら必ずしもそうでもなく、この辺は実に難しいところです。

適当に書き散らかして盛大に発散してしまいましたが、とりあえずこの暴走も『クリード』を観た余波みたいなものなのでやはりそういうパワーのある映画だったと思います。