[movie] スポットライト 世紀のスクープ

spotlight アカデミー賞ノミネートを前面に押し出しすぎの残念なポスターですが、実際に作品賞を獲得してなお、あまり話題にならなかった感があるので、ある意味、強調していくのは正しい戦略だったのかもしれませんが(もしくはそもそも見当はずれなのか)、とりあえず満を持して、という感のあるマーク・ラファロ主演、トム・マッカーシー監督による本年のド本命映画です。

が、ちょっとこのところ観たのに感想をちゃんと整理していない作品が積み上がりすぎているのでまずはショートバージョンでさらっと書き上げることにします。:-)

作中ではカトリックの神父たちによる「児童に対する性虐待」と、教会による「組織ぐるみの隠蔽」という途方もなく深く巨大な闇に挑んだボストングローブ紙の特集記事専任チーム、「スポットライト」のメンバーの戦いを描いているわけですが、この作品は、主演のマーク・ラファロにとどまらず、チームリーダーを演じるマイケル・キートン、編集局長を演じるリーヴ・シュライバーを始めとするボストングローブ側の助演陣や、被害にあった児童を支援し続ける弁護士として登場するスタンリー・トゥッチ、支援団体を運営する被害者の一人を演じるニール・ハフ等々、実在の人物たちを演じるキャスト陣の渾身の演技が本当に素晴らしいわけです。

「事件」そのものが持つ、肚の底が冷えるような、どうしようもない重たさに対して、それに挑んだ側もある意味で「重さが釣り合う」ように演じ切るというのは、物凄い離れ業だと思うんですが、本作でのその達成度というのは、マーク・ラファロに対する個人的な思い入れを抜きにしても特筆に値します。例えば予告編でも抜かれていた、マーク・ラファロ演じるマイク・レゼンデスが、彼らの調査に苦言を呈した判事に反駁するセリフ、

Where's the editorial responsibility in NOT publishing them?

は、この映画が観る者に投げかけてくる大きな問いを端的に表しているわけですが、その説得力というか、「力」が凄まじいんですね。社会に対して、社会の中に厳然と存在するそれらの問題に対する、責任とは何なのか。我々が日々、社会の中で生きていく営みの中に、「責任」はちゃんと存在できているのか。それを映画から観る者に届けるパワー。

そして一方、映画の中でも、この問いに対する様々な答えや姿勢を、例えばリーヴ・シュライバーやスタンリー・トゥッチがそれぞれ見事に演じていて、脚本の力量ももちろんあるわけですが、その辺り、隅々まで行き届くように描き切られた魂の煌めきを成り立たせた俳優陣とそれを束ねた監督が、この映画全編を強烈に輝かせていると思います。

このリーヴ・シュライバーとスタンリー・トゥッチはそれぞれ個別に記事を立てるべきじゃないかと思うほど言いたいことが山ほどあるのですが、まずはショートバージョンで、という誓いに殉じて今回はここまでとします。

ちなみに字幕は齋藤敦子さん、さすがの安定感でした。あと撮影監督がMasanobu Takayanagi(高柳雅暢さん)で、東北大学で学ばれた後に渡米して撮影監督になられた方らしいんですが、この方、『ブラック・スキャンダル』でも素晴らしい画を撮られていて個人的に気になっています。今後要チェック。

[movie] 完全なるチェックメイト

またしても「実話に基づく」です。

というか、トビー・マグワイアがチェックメイトする、くらいしか事前情報がなかったので、まさかボビー・フィッシャーものだとは思っていなかったのですが、おかげでとんだ不意打ちを食らってしまいました。

トビー・マグワイアは名演というか、実話だというのに当て書きじゃねえか、っていうレベルではまっているんですが、演技という観点ではライバルのスパスキーを演じたリーブ・シュライバーがなかなか素晴らしい演技をしています。

ただ全体的にいまいち、ちぐはぐ感があるというか、音楽であったり当時の映像クリップであったり、あるいは当時の映像風に加工した映像表現であったり、挿入される様々なものが何となくとっ散らかった印象を残した感があります。プロット的には最後のスパスキーとの決戦というところに収斂していくんですが、その結末の後、映画のラストがまた散らかるというか。

この映画、そもそも邦題の『完全なるチェックメイト』が意味不明なんですよね。クライマックスである24番勝負の第6局は実際にはチェックメイトではなく、スパスキーの投了で終わっていて、映画全体を見ても「チェックメイト」が暗喩として成立するようなモチーフもなく。じゃ、原題はどうなんだ、と見てみると、こちらは「Pawn Sacrifice」で、これも何だかよくわからず。ちょっと調べてみると、監督のエドワード・ツヴィックが「ボビー・フィッシャーもスパスキーも、それぞれアメリカとソ連の間の冷戦でのポーンの一つに過ぎなかった」とか言っているらしく、おいおい、そっちがテーマかよ、と後から悟る羽目に。言われてみればそういうシーン多かったよ!

まぁちょっと根本的に勘違いして観ていたようなので感想も的外れになってしまう気がしますが、とりあえず、その第6局はよかったです。『セッション』を観た時に「音楽というもの」という概念がキーになって、というところがあったわけですが、ある意味で、それに通じるような「チェスというもの」「チェスプレイヤーという人々」という概念レベルでの共鳴をほのかに感じさせる部分があって、そういうのはやはり大好物なので。

というわけで、トビー・マグワイアがチェックメイトしなかったわけですが、そうかーボビー・フィッシャーかー、というような歯切れの悪さを残してとりあえず記事を閉じることにします。(なんだそれ)