[movie] バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生

BvS ザック・スナイダー監督の下、ベン・アフレック演じるバットマンとヘンリー・カヴィル演じるスーパーマンを筆頭にDCコミックのスーパーヒーローたちがMCU(マーヴェル・シネマティック・ユニバース)に立ち向かっていくという一大叙事詩の序章です。(ちがいます)

ザック・スナイダーといえば、とかく「物議を醸す」タイプの監督で、代表作をひとつひとつ見ていっても、賛否両論がくっきりと、場合によっては激しく分かれるものが多いような気がします。個人的には今となってはこの「BvS」の前日譚的な位置づけとも言える前作の『マン・オブ・スティール』はけっこう楽しんだのですが、今作については先行している批評家の反応がけっこう辛辣だったりして、不穏な空気が漂っていました。これはやはり「長い」とか「暗い」とか「絵面だけにこだわって脈絡がない」「全体を通した構成力がない」といったザック・スナイダーの悪い癖が出たのかなぁ、と。

なので、期待とも不安とも何とも言えない妙な予感を抱いて劇場に足を運んだわけですが、実際に蓋を開けてみると、なんとも見事に「長い」「暗い」「絵面だけにこだわって脈絡がない」「全体を通した構成力がない」作品にそのまんま仕上がっていました。(ヒャッホー)

 

が。

 

「それでも一向に構わない」、という奇跡が起きています。(ブラボー)

 

実際のところ、ザックの良くないところは本当にそっくりそのまま丼からはみ出す勢いでてんこ盛りになっていて、これは嫌う人は嫌うだろうなぁと思うんですが、これはやっぱり、ザック本人は悪いことだと微塵も思っていないんですね。クリエイターとして描きたいものと、プロの映画監督としてやるべきでないことの狭間で葛藤する、とかいうそこらの小物のような屈託は彼にはなくて、「これがベストだ」と心から信じて作品を送り出しているのが伝わってきます。おそらく彼にとっては、思いついた「美しい絵」があればリアリティやストーリー全体とのつながりとかに拘泥するべきではなくて、何なら唐突な幻視でもいいからそれを出すべきなのでしょう。まぁバットマン・シリーズでは本人のトラウマということもあるのである程度のフラッシュバックはOKだと思うんですが、今作のフラッシュバックは「甘エビを食べていたと思ったら次の瞬間マグロだった」みたいな、目隠しで海鮮丼を食べさせられているかのように、受け手の戸惑いを気にせずどんどん口の中に突っ込まれてきます。時々ショウガとか投入される感じ。

まぁ、個人的に非常に気に入っていた予告編のシーンまでが幻視のひとつだったのは衝撃を受けたわけですが、そういう困惑をとりあえず飲みくだして、まとまりも一貫した筋もない「絵の積み重ね」を問題視せずに受け取ることに成功すると、すなわち、この作品を純粋に加点方式のみで評価できるようになると、監督が最初からそっちにポイントを全振りしているだけに、この映画は非常に強力に迫ってきます。

そしてそれが特に際立っているのが、ジェシー・アイゼンバーグ演じるレックス・ルーサーと、そして何よりガル・ガドットのワンダー・ウーマンだったわけです。

特にワンダー・ウーマンは何だかよくわからないままうろちょろとストーリーに出たり入ったりしていて、この女性は何なんだ、とぼんやりと思っていたら突然凄まじい燃え音楽とともに見せ場を完全にさらっていった上に、そこまでの尺の長さに停滞して沈み始めていた観客の精神をも見事に救い出すというあっぱれなスーパーヒロインぶりで、正直な話、この「ワンダー・ウーマンとしての登場シーン」とそこでかかる"Is she with you?"にこの映画の価値の120%くらいがある気がします。

一方のジェシー・アイゼンバーグも、これまた見事な「ジェシー・アイゼンバーグ」を演じきっていて、バットマン v.s. スーパーマンというよりはジェシー v.s. バットマン&スーパーマンという構図をがっちり成立させる素晴らしい悪役ぶりでした。今回は定番の高速セリフまわしを、才気と狂気によって激しく振動する、高速ナックルボールのようなアレンジにしていて、極めてマニアックでとびきり魅力的なレックス・ルーサーを完成させています。

もちろん主演のベン・アフレックもヘンリー・カヴィルも決して引けを取っているわけではなく、それぞれ、かつて人であり、今はタガが外れるように人から逸脱した感のあるバットマンと、最初から人ではなく、自然な構造として人の世界から上空に乖離してしまっているスーパーマンを、かっちりと演じきっています。特にヘンリー・カヴィルの「やっぱりこいつは結局、人間じゃないんだな」という瞳の光は、生半なことではたどり着けない境地である気がします。もうひとつついでに、ジェレミー・アイアンズのアルフレッドも、マイケル・ケインよりさらに一歩、ブルース・ウェインの背中の闇に踏み込んだ寄り添い方になっていて、非常にポイントの高い執事像でした。どちらかというと「主人を思う執事の鑑」というより、「完全に呼吸が合った長年の相棒」といった趣で。

こういう、期待されているものをきっちりと完璧にこなす俳優たちの演技は、この作品を崩壊の瀬戸際から救い上げているのかもしれません。実際、ザック・スナイダーが好きなように突っ走って、世界観とそれに応じたリアリティが度々、危ういバランスに傾きながらも最終的に破綻せずに済んでいるのはこうしたキャスト陣がしっかり脇を固めていればこそ、という気がします。

 

ただ唯一惜しむらくは、最終的な決戦の相手であるドゥームズデイで。『インクレディブル・ハルク』のアボミネーションを思わせる造形と知性のなさが、どうしても萎えてしまうんですよねぇ。個人的なトラウマなのかもしれませんが、工夫のない巨人形態というものに、どうも魅力を感じません。バトル自体は割と好ましかったんですが、もう少し何とかならないのかなぁ。あまり原作から離れるとまた色々言われるんでしょうけども。

 

というわけで、不安と期待の入り混じった複雑な心情で臨んだ一作でしたが、観終わったあとにはシンプル極まりない「小学五年生」の魂が残る、近年では稀に見るレベルの「小五」映画でした。ザック・スナイダーは「俺たちのは『神話』だから」などと嘯いてますが、ぜひこの調子で、小学五年生が方眼ノートにガシガシと書き連ねる神話のような作品を作り続けていってほしいと思います。

 

[movie] X-ミッション

X-mission.jpg 何か日本語版のポスターが見つからない、とかそういう事実が何事かを雄弁に物語っている気がしますが、とりあえず、エリクソン・コア監督による『ハートブルー』(1991)のリメイク作品です。そのオリジナルの方を観ていないのですが、とりあえずリメイクと言いつつ結構大胆に変えてきているということらしいので気にしない方向で。

この映画は「No CG」を標榜し、エクストリーム・スポーツの超絶スキルを持った犯罪者集団に、同じくエクストリーム・スポーツ出身のFBIエージェント(候補生)が潜入捜査を仕掛けるというプロットをいいことに、実にエクストリームな映像を好き放題にぶち込んだ作品なのですが、何というかこう、実にそれ以外に形容のしようがない仕上がりになっています。色んな意味で。

実際、この映画は、冒頭のバイクで切り立った尾根を疾走するシーンから始まって「ビッグ・ウェーブ・サーフィング」にしても「ウィング・スーツ・フライング」にしても、あるいは山頂からのスノーボーディングや完全にオーバーハングな崖に挑むフリークライミングにしても、CGじゃない、ということを頭が拒絶する感じのエクストリームっぷりで、理解を超えた凄まじい映像が全編通しててんこもりになっています。正直、これだけを観るのに劇場に足を運んでもいいレベルで。

特に「ビッグ・ウェーブ・サーフィング」については「映像自体が現実であること」を超えて、「そういうスポーツが実際に存在すること」という現実に打ちのめされるレベルです。5〜6階建てのビルの高さで立ち上がってくるその巨大な塊を見て、「よし、おれはあの波に乗るぞ」というような発想がどこから出てくるのか、人間という生き物の謎の深さ、業の深さに目眩がします。

その一方で、その映像を繋いで作品を束ねる役割を負っているところのストーリーがどうかというと、ちょうど位置付け的にしっくり来るのが『47 Ronin』ですかね。オリジナルの『ハートブルー』の主演がキアヌなんで、きっとそういうオマージュです。スピリチュアルな感じで、「お、おお、そうか…おお…おおお…」みたいな感じで、「悟る」ということがいかに己から遠いものであるかを思い知らされます。EnlightenとかOrdealとか普通に生きてるとあまり使わない言葉が頻出するので勉強になるんですが、それもすべて「オザキ・エイト」のインパクトによって綺麗に消去されるのでやっぱり勉強にはならないかもしれません。やはり「アルティメット・トラスト」の心境で、無心で身を委ねるのがいいのでしょう。何かを得るのではなく何かを返すための試練。そんなことを考えているうちに、よく分からないまま本編は終わっていたのですが。

スタッフロールが無茶苦茶長いんですね、この映画。

これだけ長いのは自分の記憶している範囲では『ハリー・ポッター アズカバンの囚人』以来じゃないかと思いますが、それもまぁこれまでに生きていて自分が地球から奪ったものを考えれば甘んじて受け入れるべきかという気はします。

なんともよくわからない映画だったので(いや、まぁある意味スゲーよくわかるんですが)よくわからないことをつらつら書いてきましたが、自分的には「映像キレイなだけで許せる範囲ってけっこう広いんだな」ということが分かりました。手汗もしっかりかいたし、満足です。足汗まではいかなかったのでさすがに『ザ・ウォーク』には及びませんが(他にもいろいろ及んでない)。

 

 

[movie] ブラック・スキャンダル

ジョニー・デップ主演、スコット・クーパー監督の、「実話に基づく」です。(またか。)

ボストンのアイルランド系住民で、幼い頃に絆を結び、今はそれぞれ別の道を歩んでいた3人、ギャングのボスとなったジミー・バルジャー、その弟で上院議員のビリー・バルジャー、友人でFBIの捜査官になったジョン・コノリーの人生が再び絡み合って、というお話です。

このジャンルは『ミスティック・リバー』とか『スリーパーズ』とかの傑作が記憶に残っているので大変ですよね。※なお「このジャンル」というのは「ケビン・ベーコンもの」のことです。

ちなみに「実話に基づく」とは言え、ポスターには「Based on Book」なんていう書き方がしてあって、実際にはDick Lehr とGerald O'Neillによる「Black Mass」というドキュメンタリーが原作になっています。映画も、原題は『Black Mass』ですね。

さて、中身ですが。

この映画のジョニー・デップは、どうしても頭部のバーコードっぷりが目立つんですが、実に凄みと深みのある演技をしていて、目の下の隈取りがなくても、ドーランを塗ってなくてもちゃんと存在感のある演技ができる、ということを改めて証明しています。批評家筋でもキャリア・ベストという声がちらほらあるくらいで、何というか、キャラクターではなく、「人物」を演じている感じ。

ちなみに弟役を演じるベネディクト・カンバーバッチとはあまり濃い絡みがないんですが、兄のジミーと、対照的に「正しい人」であるビリーとの関係は、淡々としながらも非常に堅い絆であって、劇中、二人が絡む最後の場面である電話のシーンはそれを見事に描き上げています。こういうベタベタしない兄弟は尊いし、ああいう「さらっと固い」みたいなのは非常に好ましいです。

劇中には他にもいろんなドラマがあって、特に主人公であるジミーの愛情と孤独、家族の喪失と、失くした拠り所に対する埋め合わせのように虚しいIRAへの傾倒などなど、じゃあ結局、このジミー・バルジャーという男は「何だったのか」、そして監督は何を描こうとしていたのか、というのが一見して掴みづらい、なんとも紛糾した感じに仕上がっています。ある意味、最近書いてきた流れで言えば、「実話に甘えて」そのまま放り出しているようなところがあるわけです。描くのではなく、ただそのまま提示する、というか。

しかし、この丸投げに意図がないかというとそうではない気がしていて。

ここでタイトルの話に戻るんですが、Black Massというのは、日本ではむしろ「黒ミサ」という言葉で知られていますが、要は反キリスト的、悪魔主義的な祭礼であったり、集会であったり、あるいは秘密裏に行われる結社の儀式です。このポイントは『ブラック・スキャンダル』という邦題では薄まってしまうのですが、この言葉の選択には割と大きな意味がある気がしていて、黒ミサであれ反キリストであれ、本来のミサあるいはキリスト教という枠組みがまずありきの構造で、それに反発し、それを歪曲し、それを憎悪して揶揄することをその「冒瀆」の核にしているがゆえに、むしろそういう本来の価値観に不可避的に根ざしてしまっている、というような含意が底にあるように感じられるわけです。

劇中、何度も出てくる教会のシーンもその辺りを補強しているような気がするんですが、そう思うと、そうした信仰であったり正しい道であったり、そういった善なるものを対比の軸に置きつつ、一人の人間として家族を深く愛しながらすべてを失っていったジミー・バルジャーと、イタリアン・マフィアを放逐するという正義を目指していたはずのジョン・コノリーの間に、この、実に黒々とした「Black Mass」が生まれ、何もかも飲み込んでいった、という、如何ともしがたい「大きなうねり」とそれに取り込まれた人の「魂」、そして流された果てにそこに生じてしまった、魂の「あるべきところからの距離」または「断絶」といったことがひとつのテーマなのではないかと思います。

そう捉えると、何というか極めて救われない話なんですが、しかしエンディングで淡々と提示される事実には、救済とは言えないまでもほのかな光が残っている気もします。

今作は「登場人物のその後を語る」という、おいおいそれをやるか、という終わり方をしていくんですが、そこで語られる「事実」は、単なる添え物的な「後日談」を超えて、ストーリーとしてのテーマに帰結しています。そこで提示されている、弟であるビリーと、友であり共犯者であったジョン・コノリーの「その後」は、結局どちらも、最後までジミーを「売らなかった」ということを意味しているわけです。後者はまぁ報復を恐れて、ということかもしれませんが。結果としてそこに残ったままの絆が、この映画が最後に目を向ける部分なんですね。

そのことを、それぞれ存命である、現実に存在している3人が互いに知って、互いに黙したまま、抱えたまま、今は別々に生きている、というのは、何となく、ただただ長い溜息が漏れるような話です。

そんなケビン・ベーコン・ムービーでした。